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恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

「性でつながる社会」に抗して――坂爪真吾『男子の貞操』批判

 

男性は、自分の性を、自分の身体感覚を通して、自分の言葉で直接語るための語彙や文化を持っていない。それゆえに、女性の身体の評価や採点、支配や売春を通して、間接的に自らの性を語ることしかできない。(『男子の貞操』p.9)

 坂爪真吾『男子の貞操 ――僕らの性は、僕らが語る』は、上記のような問題に真っ向から立ち向かう評論です。このような問題意識は、現代において性や愛を考える上で極めて重要であり、この問題を明確に打ち出したという点だけで、この本は充分に評価できるものでしょう。

 

 ところが一方で、この本はある重大な欠点を抱えてもいます。
 それは、人間関係を築く上でセックスを特権化している、という点です。

 

 坂爪氏は、「現代の社会でなぜ童貞が問題視されるのか、なぜ童貞であるということについて悩む人が多数いるのか」という問いを立てます。それに対する坂爪氏の回答は、「セックスへの動機付けそのものが無い」というものです。

 今の世の中では、セックス以外にも様々な娯楽があり、また多様な方法で人間関係を作ることが可能になっています。そのため、セックスの価値が相対化され、人々はセックスをしたいという動機を失っている、というわけです。

あるのは、「しなければならない」という焦燥感や、「しないと、男としてダメな気がする」といった劣等感だけ。いずれも、童貞を批判的に捉える同性の眼差し、世間の眼差しを内面化することで生じた感情であり、そこに、本来いるべき女性の姿はありません。(『男子の貞操』p.96)

 

 このような問題意識からは、当然「動機がないなら、無理にセックスしなくてもいいじゃないか」という反応が出るでしょう。しかし坂爪氏は、そのような発想を切り捨てます。

 しかし、セックスは、単なる娯楽や趣味ではなく、次世代に命をつないでいくためのライフラインであり、僕たちが、社会の中で孤独にならずに生きていくため、他者との絆を作るための命綱でもあります。
 童貞であること=セックスができないということは、「性欲が処理できなくてかわいそう」「いい年をして恥ずかしい」という次元の問題ではなく、「他人との絆が作れない」「未来の子どもたちとの絆がつくれない」ということを意味します。個人的な欲望やプライドの問題ではなく、社会的な絆の問題です。(『男子の貞操』p.108)

 上記のような考え方に、この本の問題点が深く刻み込まれています。

 つまり坂爪氏は、セックスを「1:いま生きている他者との絆作りのため」「2:未来の子どもとの絆づくりのため」の特別な行為であると位置づけているのです。では、この考え方からいかなる問題が生じるのでしょうか。

 


・セックスでつながる必要はない

 

 そもそもなぜ私たちは、性を通じて他者と繋がらなければならないのでしょうか?

 身近にいる人のことを思い浮かべてみてください。

 あなたの近くにいるのは、恋人だけでしょうか? そんなはずはないでしょう
 大切な友達が、異性同性を問わず存在するはずです。今は身近にいなかったとしても、過去に仲の良かった友達がいたことがあるという人は多いと思います。

 

 私たちは、性を通じなくとも他者とつながることができるのです。
 にもかかわらず、坂爪氏は他者とつながる手段としてセックスを強調してしまいます。

 

 たとえば坂爪氏は、性でつながる関係のために「利他的なセックス」を称揚します。

セックスを、自分目線(=自分の性欲の処理・発散目的)ではなく、相手目線(=相手との絆をつくるための手段)で考えて、時間と労力をかけて、相手との絆をきちんとつくった上で、セックスに臨むこと。これが、「利他的なセックス」の定義です。(『男子の貞操』p.113)

 仮にセックスをやるとすれば、確かにこのようなセックスは望ましいものでしょう。

 ですが、「利他的」であることが求められるのは、なにもセックスに限った話ではありません。友情を築くときにも、ある種の利他性は必要とされるはずです。

 他者とつながる手段として、セックスが特権化される理由はないのです。


 とはいえ『男子の貞操』の中には、(申し訳程度ですが)身体を交わすセックスが特権的ではない、という含意の記述が出てきます。その部分を引用してみましょう。

実は、異性との会話、及びそれに伴う濃密な時間の共有体験、それ自体が、セックスの一種なのです。「身体でセックスする相手」が配偶者であるとするならば、ガールフレンドは「言葉でセックスする相手」です。身体を伴わない、言葉でのセックスであれば、浮気や不倫にはなりませんし、誰も傷つきません。それゆえに様々な分野・世代の相手と、同時並行的に楽しむことができます。さらに、将来、加齢や病気で、身体的な性機能が不自由になった時も、引き続き「セックス」を楽しむことができます。(『男子の貞操』p.205)

 もちろん、「異性との友情が重要である」という主張には同意します。

 ですが、そのような異性間の友情をも「性的な関係」として定義してしまうことは、男/女を社会的に分離してしまうことになりかねません

 

 現代の社会では、「性的なもの」はプライベート(私的)な領域に属すべきものとされています。そして「性的なもの」がパブリック(公的)な領域へと露骨に出てしまうと、私たちは一種の滑稽さを感じるはずです。

 たとえば、「登場人物が全裸のまま街へ放り出される」というシチュエーションはギャグアニメでしばしば描かれるものですよね。そのような状況に対して、視聴者は滑稽味を感じて、笑いをこぼしたり、その登場人物をバカにしたりするはずです。

 

 このように、「性的なもの」がパブリックな場に出ると、滑稽なものとして取り扱われるのです。それゆえ、「異性との関係はすべてある種の『セックス』である」と設定してしまうことは、女性が職場などのコミュニティに参入することを阻害しかねないのです(逆に男性が育児にかかわるとき、保護者コミュニティに参入することを阻害する結果にもつながります)。

 性的なつながり、セックスによるつながりを強調することは、ある種の社会的排除と紙一重なのです(※)。

 そもそも性的なつながりというものは、過去から現代に至るまで過剰に強調されてきたものなのですから、むしろさらなる相対化が必要なのではないでしょうか。

 

 

・「性の記号化」の再評価

 

 性的関係を相対化する上で有効だと考えられるのが、「性の記号化」です。

 現代のアダルトメディアでは、「人妻」「お姉さん」「巨乳」「セーラー服」などのような詳細な分類が行なわれており、アダルトメディア使用者はこれらの条件によって性欲を喚起されています。このような「記号」に対して性的に興奮する状態を、「性の記号化」と呼びます。

記号は、女性の身体的・社会的特徴や、身につけているコスチューム、置かれているシチュエーションを抽象化したもので、女性個人の人格から切り離された、実体の裏付けの無いイメージです。(『男子の貞操』p.15)

 このような「性の記号化」に対して、坂爪氏は次のような批判をしています。

こうした「記号化された性」の消費に耽溺することの副作用として、僕たちは、生身の女性に出会った際にも、ついつい記号的な視点(美人か否か、巨乳か否か等)だけで、その女性の魅力を、表面的に評価・採点してしまう傾向があります。(『男子の貞操』p.19)


 確かに、生身の女性を性的記号として評価することは、極めて問題のある振る舞いと言えるでしょう。

 ですが、そもそもなぜ「生身の女性」を評価するのでしょうか?
 それは、セックスが生身の人間と「やる」ものだという固定観念があるからです。

 生身の女性とセックスを「やる」という文化でなければ、そもそも男性は生身の女性を一方的に「評価」するようなことはしないはずです。

 

 先ほども引用したとおり、「記号化された性」とは、「女性個人の人格から切り離された、実体の裏付けの無いイメージ」です。そしてこの「記号化」が問題となるのは、生身の女性から切り離された「記号」を再度生身の女性に押し付け直すときです。だとすれば、記号を記号として切り離したまま、生身の人間から性を乖離させれば問題はなくなるのではないでしょうか。

 

 このような主張に対して、「AV女優はそもそも『生身の女性』ではないのか」と思う方もいるかもしれません。実際『男子の貞操』で坂爪氏が触れているように、性風俗産業には様々な問題が含まれています。これらの問題を無視して、生身の女性に記号を押し付けることは決して是認できません

(引用)あなたがその女性のヌードを見れば見るほど、その女性のヌードにお金を払えば払うほど、その女性のヌードの価値、そして女性本人の社会的評価は低下していきます。予め女性を廃棄することを前提にして回っているビジネスモデルが、そこにはあります。(『男子の貞操』p.76)

 ですが、もし仮にすべてのアダルトメディアがイラストやアニメなどの二次元表現になれば、どうでしょう。それこそ、「生身の女性」が介在することのない、純粋に「記号化された性」ではないでしょうか。

 

「フィクションを性的対象とすること」は、「実在する他者を性的対象とすること」に比べて価値の低いものだとみなされています。ですが、そのような「他者と関係を結ぶためのセックスこそ至高」という格付けこそ、時代に合致しない不当な発想なのです。

 

 実際、「性でつながる社会」への反発は、数十年間に渡ってじわじわと拡大してきています。
 古い例で言えば、戦後フェミニズム運動の一部に、性愛からの自由を求めて女性同士の友情関係を強調したものがありました。
 90年代までのオタクを「恋愛資本主義への反逆」として力強く肯定した本田透も、この系譜に含まれるでしょう。
 最近で言えば、「草食系男子」という言葉が典型的な例ですね。

 これらの現象を、「男性性/女性性の喪失」という性別二元論的な枠組みで捉えるのではなく、「性でつながる社会」という社会構造の観点から解釈し直すことが必要になっているのです。

 

 

  考えてもみてください。

 セックスする動機がないのにもかかわらず、どうしてこれほどまでセックスへと追い立てられなければならないのでしょうか。なぜ私たちは「性」でつながらなければならないのでしょうか?

 

 普通の行為は、動機がなければ実行しないでしょう。

 ところが坂爪氏が指摘するように、性愛は動機や必要性がないにもかかわらず多くの人がやっています。というより、「社会の空気」に従って「やらされている」のです。

 このような社会の空気、すなわち「性を介してしか異性とつながれない」という発想や、「性的に他者とつながれなければ不幸」という発想は、現実恋愛至上主義の病毒であり、むしろ人間関係の可能性を奪うものです

 

「性愛に対する動機づけの喪失」や「性の記号化」といった、現代の趨勢に真っ向から対立し、旧来的な身体関係を理想化するのは、ある意味で保守的な幻想であり、現実的ではありません。

 どころか、「性愛に対する動機づけ」を強引に回復させようという主張こそ、性愛への強制性が具現化したものではないでしょうか?


 私たちは、もう「性」でつながる必要はありません。
「性」でつながらないことに、劣等感を抱く必要もありません。
 実在する他者を性的に求める必要は、どこにもないのです。

 

 

セックスレス少子化の安易なこじつけ

 

 次に、「未来の子どもとの絆づくりのため」のセックス、という議論について。

 『男子の貞操』に限らず、「セックスしなければ子どもはできない。だから皆さん、もっとセックスしろ!」という主張はいたるところで散見されます。しかしこの論理は、大きな飛躍を含んだものです。


 確かに、セックスしなければ子どもはできないでしょう。ですが、セックスしても必ず子どもができるわけではありません。むしろ回数で考えれば、妊娠につながらないセックスの方が圧倒的に多いはずです(カップルが一生の間に産む子供の数と、一生の間にセックスする回数、どちらが多いかは明らかでしょう)。

 

 現代では、避妊技術や生殖医療技術の向上によって、セックスと生殖との結びつきがかなり解かれています。そのことを無視して、セックスと子孫との関連を強調しすぎることは、「現実恋愛至上主義」を不当に煽ることであり、「性でつながる」ことを強制する「空気」に加担することにしかなりません。

 

 もしセックスが「未来の子どもとの絆づくりのため」だというのであれば、子どもを作ろうとするときだけセックスすれば良いのです。子どもを作ることの重要性が下がらないのであれば、セックスの重要性が下がったとしても、「子どもを作る」という理由だけで人々はセックスをするでしょう。

 

 多くの論者がすでに指摘しているとおり、少子化は経済的側面から発生する問題です。少子化に対しては、経済的・社会的な支援で対応すればいいのです。

 それゆえ、セックスの重要性を引き下げることと、少子化対策とは、問題なく両立すると言えます。

 


 ……というのが、「子どもを残すことは善いことだ」という前提を受け入れた上での反論でした。

 ですが、そもそも「子どもを残すこと」は本当に「善いこと」なのでしょうか?
 「未来の子どもたち」を産み出すということ自体が、現在生きている人間たちの身勝手極まりない行為ではないと、誰が言いきれるのでしょうか?

 そういった根源的な問いを無視して無邪気に子孫繁栄を褒め称えることに、どうしても違和感を禁じ得ません

 


・良いセックス、良いオナニーについて

 

 もう一点だけ、『男子の貞操』で気になった箇所を指摘しておきます。

『男子の貞操』で、坂爪氏は性的快楽について「タブー破り型」と「積み重ね型」に分けて論じています。

 

「タブー破り型」の快楽とは、「禁じられているルールを破ったり、隠されているものを覗き見る」ような類の快楽を指します。坂爪氏によれば、これらの快楽は「誰かを犠牲にしたり、抑圧・差別したり、排除したりすることによってしか成立しえない」ものです(『男子の貞操』p.26-27)。

 

 対して「積み重ね型」の快楽とは、「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」のことです(『男子の貞操』p.28)

 

 このような区分を用いながら、坂爪氏は「ポルノグラフィを用いたオナニーは『タブー破り型』であり、本物の快楽ではない」と暗に主張します。

 ここには坂爪氏の、セックスは「他者とつながるために」「やる」ものだ、という偏見が如実に表れています。

 

 はっきり申しておきますが、ポルノグラフィを用いたオナニーもまたある種の「積み重ね型」の快楽となり得ます。
 以前の記事でも書いたとおり、オナニーには「自己の身体との対話を積み重ねてゆくことによって、自分自身を豊かにしていくためのもの」という重要な側面があるのです。

オナニーとは、「空想世界」という自己身体を開発していく営みでもあり、また自己の内に生まれた他者と対話する営みでもあります。(自己身体との対話――よりよいオナニーのための覚書 - 恋愛自給自足の間より)

 上記の記事で私は「視覚と性器的快感のみに依存したオナニーは、貧困なセクシュアリティである」という議論をしていますが、ポルノグラフィを「独りよがりで暴力的な記号」とのみ捉える視点も、同じように「貧困なセクシュアリティ」と言わざるを得ないでしょう。

 


・要約

●「性でつながる」社会こそが問題である
● 性を「記号化」し、身体を性から解放すべき
● セックスの相対化と、少子化対策は両立する
● ポルノグラフィを用いたオナニーもまた重要なセクシュアリティである

 

・関連記事

 ↑オナニーの本質的な意味を辿りながら、よりよいオナニーのための理念を考察

 

・注釈

※確かに坂爪氏が指摘するとおり、「公の場に性的なものを持ち込むのは滑稽である」という規範のせいで、男子が性について真面目に語れなかった側面はあります。ですが坂爪氏の解決策は、「性について真面目に語ることは、性的な(≒いやらしい)ものではなく、決して滑稽ではないのだ」と主張するというもので、結局「性的なものは公の場に出るべきではない」という規範を受け入れているものにすぎません。それゆえ、性的なものによる男/女の分離は、坂爪氏の発想では解決できないのです。

 

注)『男子の貞操』に関して坂爪氏は、「便宜上、異性愛の男性を対象としていますが、処方箋の内容自体は、同性愛の男性にもそのまま応用可能です。ぜひ参考にしてください。」(『男子の貞操』p.52)と述べています。当記事でも便宜上、異性愛の男性を対象とした言葉を用いておりますので、必要に応じて語句を読み替えていただくようお願いいたします。