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恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

自己身体との対話――よりよいオナニーのための覚書

セクシュアリティ 主要な記事

 

「視覚と性器的快感のみに依存したオナニーは、貧困なセクシュアリティである」


 このような議論をする方を(エッセイストやツイッター上のフォロワーさん等)最近よく見かけるようになりました。視覚だけでなく五感すべてを活用し、性器だけでなく身体全体を研ぎ澄ますことによって、オナニーにおいても豊かな性生活を送れるようになる、という話です。

 私自身このような主張には強く賛同します。

 

 標題に書いたとおり、オナニーとは自己身体との対話です。
 自分の心身の状態を思いやり、自分の快感の源泉はどこなのか気を配りながら、じっくりと自分の身体感覚を洗練させていく――。そのような自己身体の「開発」こそ、オナニーの醍醐味だと思います。

 

 ところで、ここでよく誤解されるのが、上に書いた「開発」の意味です。
「身体の開発」と言うと、たとえば「アナルオナニーの開発」や「乳首で感じられるようになろう」などのような発想が出てくるのではないでしょうか。もちろん、そういった「開発」も自分の身体と相談しながら、各自なりにやっていけばいい(やらなくてもいい)と思います。自由裁量です。

 

 ですが、ここで私が強調したいのは、「空想世界の開発」です。

 

 今回の記事を書こうと思い立ったきっかけは、以下のブログの文章でした。

私はポルノグラフィを「見ながら」オナニーすることはない。では、なぜポルノグラフィを読むのか。それは「ネタを仕入れるため」である。私は、基本的に、自作のオリジナルオナニーストーリーが、ベストポルノである。だが、いくら妄想力を活発にしても、想像力が貧困で、すぐに飽きてしまう。なので、他人が書いたポルノを参考にするのだ。私は、自分の妄想に近いポルノを読んでいると、じんわり欲情する。そこで、オナニーを始めたりはしない。そしてじんわり感とともに、ストーリーのネタを貯めておき、そこから新たなポルノグラフィを脳内で創作するのである。

(「オナニーは、セックスで代用できません - キリンが逆立ちしたピアス」より)

 

 これです。これこそ「空想世界の開発」であり、そして私が常々主張してきた「谷崎潤一郎はめちゃくちゃエロいぞ」という言葉の本質なのです。

 ツイッターで何度か書いたことがありますが、私のオナニーライフの中でも指折りなのが、谷崎潤一郎『春琴抄』をもとに妄想を発展させながらオナニーした体験です。

 ですが、実際に『春琴抄』読んだことのある方なら、こう思うはずです。
「オナニーの『おかず』として使える場面なんてあったっけ?」と。
 この作品には直接的な性描写はありません。しかし代わりに、作品を読めば分かるとおり、『春琴抄』で主人公とヒロインが性的に結ばれたことをほのめかす記述は作中のいたるところにちりばめられています。そして何より、谷崎の文体自体に、読者を惑乱するような色気があるでしょう。

 谷崎の卓越した美的センスによって、私の脳裏へと「オナニーストーリー」が一挙にほとばしってきたのです。これこそまさに、文学によって私の空想世界が「開発」されたという好例でしょう。

 

 このように、ポルノグラフィに限らずその他さまざまな創作物は、私たちの空想世界を開発してくれます。その積み重ねが、一人ひとりの性的空想世界における"財産"になるのです。

 

・オナニーの本質に迫る

 ところで、なぜ私たちはオナニーの最中に空想するのでしょうか? オナニーを現象学的に考察した金塚貞文『オナニスムの秩序』 をもとに考えてみましょう。

 

 そもそも私たちが性的に興奮するのは、どういうときなのか?

 それは、与えられた状況を、性的なものとして受け入れるときです。そして、自分が直面している状況を性的なものとして受け入れるかどうかは、私たちの「主体的な選択」にかかっています。

どんな状況にしろ、それ自体が性的であるわけではなく、われわれが「主体的に」それを性的なものとして選択するかぎりで(……)しか性的なものとは言い得ないのだ。(『オナニスムの秩序』p.67-68)

 ここで誤解してはいけないのが、「主体的な選択」という言葉です。注意してほしいのですが、これは私たちの理性的な判断を意味しているわけではありません。

われわれが頭で考え、判断を下す以前に、身体が、「選択し、限定」してしまうのである。身体は、その変化によって、ある状況が性的なものであることを示し、逆にまた、状況は、身体を変化させるかぎりで、性的なものとなるのである。状況の意味を判断するのは、まず第一に、身体、その変化なのだ。(『オナニスムの秩序』p.68 傍線引用者)

 私たちが直面した世界を、性的な状況として身体的に知覚すること。これが「性的興奮」の意味なのです。

 

 もし自分が直面している状況が最初から性的なものであるなら、わざわざ空想する必要はありません。つまり、オナニーにおいて空想を行うのは、そのときの状況が性的なものになっていないからだ、と言えます。

 性的でない現実世界から、性的な空想世界に移動すること。これがオナニーにおける性的空想の真意なのです。

 

 そして付け加えておくなら、このような性的空想世界への移動は、ポルノグラフィなどを観る場合にも同じように生じます。

絵や写真、あるいは文章、さらには現実の人間を見るにしても、事情は同じだ。それらは、現実世界の中の一つのものであることをやめ、そこから空想世界が広がる通路となるのであり、いわば空想世界の媒体にすぎない。(『オナニスムの秩序』p.66)

 

 さて、これまでの話をすこし整理しましょう

 

 自分が直面する状況が性的なものとなるのは、その状況を性的なものとして、身体で知覚するときです。それゆえ、自分の空想世界が性的なものとなるためには、その空想が自分の身体を性的に触発する必要があると言えます。

 一方で、オナニーのときに空想するのは、性的な状況が現実世界にないからです。つまり、オナニーしようとする人が、身体を触発するものとして、性的空想を求めている、というわけですね。

 

 ところで、ここに一つの循環が生じていることにお気づきでしょうか?

身体が性的なものとなるのは、性的空想によってであり、また、空想が性的なものとなるのは、性的身体(性的なものとなった――触発された――身体)によってであるという循環。(『オナニスムの秩序』p.73)

 つまり性的空想と自己身体との関係は、まるで自分の尻尾に喰らいつくウロボロスのように、同一のものだということです。それゆえ、オナニーする人が性的空想の中から感じ取っているものは、実際には自分の身体の性的うずきである、ということになります。

性的な空想とは、文字通り、自慰する人の身体の延長に他ならないのだ。(『オナニスムの秩序』p.73)

 

 一方でこの循環は、性的空想によって自分の身体が「空想上の自己」と「空想上の他者」とに分割されることでもあります。

 つまりオナニーにおいて、「触れる身体(たとえば手)」と「触れられる身体(たとえば性器)」とが、互いをある種の他者として知覚するのです。

言い換えれば、「触れる身体」が空想世界の他者の身体であるとき、「触れられる身体」は、自慰している人の身体であり、逆に「触れる身体」が現実の彼の身体であるとき、「触れられる身体」は、空想された他者の身体となるのである。(『オナニスムの秩序』p.75)

 その意味で、オナニーは「他者への身震い」であるとも言えるのです。

 

 以上のように、オナニーとは「空想世界」という自己身体を開発していく営みでもあり、また自己の内に生まれた他者と対話する営みでもあります

 

 自己身体の一部である「空想世界」を開発しつつ、一方で自己の内に「他者」を見出す。「空想世界」とは、ほかでもない自分の一部であるが、同時に自分自身を超え出る「他者」でもあるのだ。

 これを典型的に体現しているのが、マンガやアニメなどフィクションのキャラクターを性的対象とする営みだと言えるかもしれません。ある方のツイートを引用しておきます。

 

・まとめ

 現代では、「セックスは実在する他者と良い関係を育むために行われるべきである」という価値観が圧倒的多数を占めています。これはつまり、「性とは本来、他者との関係を育むためのものであり、それ以外の目的に性を利用するのは邪道であり劣等である」という価値観です。

 ですが、そのような固定観念にとらわれていては、「自己身体との対話」としての性、という側面を見落としてしまいます

 

 自慰とは、空想上の他者(=自己の一部)を性的他者として知覚することです。
 対して性交とは、実在する他者を性的他者として知覚することです。

自慰と性交とは、それが目ざす他者に違いがあるわけではなく、性的他者という同じ目標に至るまでの、二つの違った道のりにすぎない(『オナニスムの秩序』p.94)

 性は、自己の身体との対話を積み重ねてゆくことによって、自分自身を豊かにしていくためのものでもある。

 そのことを認識しないかぎり、現代の多様な性的営みを理解することは絶対に不可能だと言えるでしょう。