読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

なぜオタクが「三次元の女はクソ、二次元最高」と言うのか

セクシュアリティ

 

 テレビに映る女性の振る舞いに苦言を呈しながら、「だから男が二次元に流れるんだ」などと言う人がしばしば見られます(このような言い方は非オタク層に多いように感じます)。あるいは抽象的なレベルで現実の女性全体を忌避しながら「三次元はクソ、二次元最高」と言う人も散見されます(オタク側から出てくるのは、主にこのような言い方である気がします)

 

 このような、二次元を讃えるときに三次元を貶す発言は、まったくもって二次元への愛ではありません。理由は単純で、「本来なら三次元を求めるのが正しいのだが、その正しいはずの三次元がクソだから仕方なく二次元に流れている」と言っているに等しいからです。そうである以上、「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言はオタク文化内からも厳しく批判されるべきだと言えます。

 

 ですが単なる個人レベルの批判のみにとどまってしまうと、「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言に潜む根本的な問題を見落とすことになりかねません。それゆえ批判するのに加えて、社会構造のレベルから問い直すことも必要になります。

 

 「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言の謎は、なぜか関係のないはずの三次元が言及されているという点にあります。いったい何故なのか。ここにこそ着目するべきなのです。

 

 突然ですが、思考実験をしてみましょう。もしも二次元キャラクターを性的対象とする文化が多数派を占めている世界だったら? そのとき現実性愛を求める人は「二次元なんかゴミ、三次元最高」と言うのではないか。つまり二次元が覇権を握った世界では、逆に三次元への愛を語る際に二次元が言及されると想像できます。多数派を占める性文化が、「一般的な性」として準拠枠に据えられるわけです。

 

 では現実に視点を戻しましょう。「二次元の女はクソ、三次元最高」というように、三次元を讃えるために二次元を貶す人が、果たして世の中にどれだけ存在するでしょうか。おそらく極めて少数(というか、ほぼいないはず)です。つまりこの社会において、三次元を性的対象とする人は、ただ端的に三次元を愛することが容易にできるのです。

 

 これに対して二次元を求める人にとっては、「ただ端的に二次元を愛する」というそれだけのことが、容易ではありません。これは何故なのでしょうか。

 

 もしかすると、「『二次元はクソ』と言われないのは、二次元には理想しか存在しないから貶しようがない、というだけの話だ」と考える人もいるかもしれません。ですが「理想しか存在しない」のだとすれば、なおさら「ただ端的に二次元を愛する」ことなど容易であるはずです。にもかかわらず三次元を貶す言葉が併記されてしまうのは何故なのか。これこそが真に問われるべき問題でしょう。

 

 では、それは何故なのでしょうか?
 結論を言ってしまえば、ここには現実性愛中心主義の表出を読み取るべきなのです。

 

 つまり「性愛は現実でやるもの」という現実性愛文化が、あらゆる性行動に対する準拠枠として厳然と存在するせいで、現実性愛の影響から脱することができないのです。だから「二次元を性的に求める」という行為を語るために、三次元を突き放そうとする力学が働くのです。言い換えるなら、私たちの社会において現実性愛文化が「特権化」されているということです。そしてこの社会が「現実性愛を自明視する文化」であるということを、現実性愛を実践している人たちは気づくことすらできない、気づく必要もないほどに「特権化」されているのです(そして後述するとおり、このことが現実性愛の実践者自身にとっても不幸を引き起こしています)

 

 そうである以上、「三次元の女はクソ、二次元最高」という言説に対して「女性蔑視である」と批判するだけでは不十分です(そのような批判も当然必要ですが、女性蔑視はあくまでこのような言説の一側面でしかないのです)。それに加えて「三次元での性愛を準拠枠にする必要はないのだ」と声高に主張し、現実性愛の特権性を破壊しなければならないのです。

 


●現実性愛の「特権化」に絡む社会問題

 とはいえ、現実性愛の実践者からすれば、現実性愛の特権を破壊するのは百害あって一利なしだと思われるかもしれません。ところが、過剰なまでの「特別扱い」は、優遇される当人にとっても息苦しさを感じさせるものです。実際問題として、この社会があまりにも過剰に現実性愛を特権化するせいで、現実性愛を実践する人々ですらも多大な不利益を被っています。

 本来ならば様々な問題が生じているのですが、ここでは差し当たり二つだけ例を挙げておきます。

 

・「非モテ」論の根本的誤り

 現実性愛中心主義の最たる被害者が「非モテ」です。「被害者」というのは「本来ならモテないことに悩む必要などない」というニュアンスでもありますが、それ以上に「『非モテ』というキーワードでの問題化自体がナンセンスである」という面を指摘しなければなりません。

 

 そもそも性愛というのは、人間関係の副産物に過ぎないのです。この点については坂爪真吾の説明が簡潔に的を射ています。坂爪は「男女の生活と意識に関する調査報告書」のデータに基づいて、初めての性関係を獲得する経路について以下のように指摘しています。

全体の七割近くは、社会的ネットワークの中で知り合った相手、紹介してもらった相手と、初めてセックスに至るまでの人間関係を作っているのです。(坂爪真吾『男子の貞操』p.118)

 つまり恋人との出会いは、多くが友人やゼミやサークルや職場や地域などのような、社会的ネットワークを通じて発生するのです。なので恋人を作るための方法は、要約すれば「社会的ネットワークの中で、異性と出会う機会、異性を紹介される機会を増やす」ということになります(坂爪 2014: 117)。これはつまり、恋人の獲得というのは「社会的ネットワークへの貢献」による副産物という要素が強いということです(坂爪 2014: 133)。

 

 つまり、非モテ」や「恋愛格差」という言葉によって、あたかも恋人がいないこと自体が問題だとするスタンスは端的に誤りだということになります。本来ならば、「恋愛ができないという問題」と捉えるのではなく、「社会的ネットワークで上手く振る舞えないという問題」として提起をしなければならないのです。あくまでも恋愛は副産物に過ぎませんからね。

 

 にもかかわらず、副産物である「性愛関係」が前面に押し出されることによって、「恋愛以前の社会的ネットワークに関する問題」が「恋愛問題」にズラされてしまい、結果として「非モテ」に悩む人々を問題解決から遠のかせてきました。社会的ネットワークの中で上手く振る舞えないからこそ「モテ」で一発逆転したい、という倒立した苦悩を生じさせたのです。ここに、現実性愛中心主義によってもたらされた「非モテ」の受難が見出せるでしょう。

 

・制度に追い込まれる結婚

 あるいは、結婚が社会的単位の基礎として厳然と据えられている、という制度設計自体にも現実性愛実践者を苦しめる側面が強く存在します(このあたりの議論は筒井淳也『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 』(光文社新書)が参考になります)

 

 現在の日本の制度においては、婚姻家族がセーフティネットとしての機能を押し付けられています。たとえば「もし職を失ったとしても、他の家族が生活費を稼いでくれれば、落ち着いて再就職を準備するための猶予期間ができる」という具合です。逆に言えば、ケガや病気などで収入源を絶たれたとき、もし家族がいなければ辛い状況に陥りやすいということでもあります。

 

 つまり人生の戦略として、結婚して家族を持っておくことが一種の「保険」になっているわけです。この結果、結婚を望まない人であっても自己防衛の手段として家族を持つように駆り立てられてしまいます。また、不満足な結婚関係に陥ったときにも、「保険」がなくなるという理由で結婚を解消できなくなります。嫌々ながら家族関係を結ぶ、という苦しい状況が増えてしまうというわけですね。

 

 また、現実性愛中心主義が規範と化している現在、夫婦関係は愛によって結ばれるのが望ましい、とする価値観が人々に内面化されています。それゆえ「保険」としてしぶしぶ関係を維持している家族は、望まない関係を保ち続けながら、同時に、内面化された規範に背くという二重苦を味わうことになります。

 あるいは、夫婦間のセックスレスが不必要に問題視され、中年夫婦を無駄にセックスへ駆り立てようとする言説が出回っていることも、現実性愛中心主義の問題と言えるでしょう。

 要するに、現実性愛中心主義は制度と規範の双方から人々に負担を強いてしまっているわけです。

 

 そして言うまでもなく、結婚という閉じた二者関係が特権化されることによって、非二者間関係における性や親密関係が周縁化されてしまうことになります(つまり独身者やポリアモリーが冷遇されるわけです)。結婚制度は、ある種の現実性愛を特権化する装置でもあるのです。

 

 そうである以上、「現実性愛の特権性の破壊」には現状の結婚制度を改革することも含まれてくるでしょう。あえて大雑把に言ってしまえば、セーフティネットを国家が担い、家族の負担を減らすことが、二次元を性的に求める文化にとっても有利に働くと考えられるわけです。そして社会保障をカップル単位から個人単位に転換することも求められます。

 


● 結論、あるいは問題提起

 冒頭に述べたとおり、二次元を讃えながら三次元を貶す発言には二種類あります。

 一つは、非オタク男性が女性の振る舞いに眉をひそめながら「だから男が二次元に流れるのだ」と言うものです。このような発言に対してオタク側からは、「人を勝手に女性蔑視の道具にしないでください」と拒絶することが重要になります。

 もう一つは、オタク自身が抽象的なイメージなどから女性全体を怖れて「三次元はおっかない、二次元最高」と言う(本田透みたいな)ものです。これに対してオタク内からは、「それは二次元への愛ではない」と批判しましょう。

 そしてこの二パターンどちらについても、根っこには現実性愛中心主義の発露があります。それゆえ根本的には、「三次元を準拠枠にする必要はないのだ」と声高に主張し、準拠枠を破壊するべきなのです。そしてこのような準拠枠の破壊は、準拠枠の内部にいる現実性愛文化の側からも行われなければなりません。というより、むしろ現実性愛を実践する人たちこそが、三次元を準拠枠とする文化の中で(良くも悪くも)「特権化」されていることを自覚しなければならないでしょう。

 

 繰り返しますが、「三次元の女はクソ、二次元最高」と言う人達に対して、それが他者を蔑視する発言であると指摘するだけでは不十分と言わざるを得ません。「三次元の女はクソ、二次元最高」という言説の責任は、オタクだけにあるのではなく、現実性愛を営む側にもあるのです。

 もしこの説明を「三次元への責任転嫁」と感じるのであれば、それは現実性愛中心主義に毒されている証拠です。むしろ今まで様々な場面において、二次元が現実性愛文化から不当な責任転嫁をされてきたことを認識するべきでしょう。以下二つほどツイートを引用しておきます。

  現実性愛中心主義は、「性的対象は実在する人間であるべき」「性は人間関係の中でのみ"浄化"される」とみなすような、性を人間と結びつける価値観に基づいています。そして上述のとおり、現実性愛中心主義が現実性愛の実践者をも苦しめるものである以上、性と人間の結びつきをほぐすものとして二次元を積極的に位置づけることが望まれると思います。

 

 

・ちょっとした補足

 ジェンダーに関するの論争や研究は、「男/女」の線引きが絶対的ではないということを明らかにしてきました。これは単に「男/女」の境界が曖昧であるというだけではありません。「男/女」以外にも人間を二分する境界線は無数にあり、「男/女」という線引きもまた多数ある線引き方法の一つにすぎない、ということを示したのです。

 

 性や愛に関する境界線の引き方は「男/女」だけではありません。たとえば僕のような二次専にとっては、「男/女」の境界よりも「二次元/三次元」の境界の方が圧倒的に重要なのです(男性の中には食わず嫌いしている人も多いかもしれませんが、BLにはBLなりの面白さがあるので、読んでみるといいと思いますよ)

 

 二次元に描かれたキャラクターを、単純に現実の男女を表象したものとしてのみ捉える視点は、性別二元論を強化するものであり、ひいては男女双方への性差別を強化するものだということに注意が必要です(性差別というのは女性だけが被るものではなく、男性もまた異なる形で被っているものだ、というのは言うまでもないでしょう。それは男性と女性どちらがツライかという問題ではなく、どちらの性差別も解決するべきなのです)。

 

 

 すこし話は変わりますが、近年では同性愛差別への批判として、「多様な性を生きやすい社会」が求められています。それ自体は極めて正当なのですが、ときとして「多様な性を生きやすい社会」を目指すスローガンとして「みんな違って、みんないい」と言われることがあります。ですが真に「多様な性を生きやすい社会」においては、「みんないい」とすら言われないはずです。

 

 なぜなら、個々人のセクシュアリティが社会(≒人間関係)において過剰に重要視されること自体が、性を不自由なものとしているからです。そこで最終的には、社会にとって個々人の性が重要でなくなるような世の中を目指すべきなのです。言うなれば、「みんな違って、みんないい」の先にある「みんな違って、どうでもいい」の境地まで視野に入れるべきなのです(本当に「どうでもいい」のであれば、他人のセクシュアリティを気にして差別する事態が生じるはずはないですからね)

 

 そのような社会を目指す方法として、社会における性愛の価値を徹底的に引き下げることが重要になります。「社会」とは人間関係の集まりですから、つまり人間関係において性愛がどうでもよくなることこそが、逆説的に「多様な性を生きやすい社会」だと言えるのだと思います。

 そして「多様な性を生きやすい社会」こそ、オタクたちが「三次元はクソ」と言う必然性のない社会なのではないでしょうか。

 

 

●現実性愛の相対化にオススメのアカウント

 

●推薦図書

 

 

●関連記事

二次専には、実写AVがこう見える

主要な記事 セクシュアリティ

 

 二次専とは、二次元のキャラクターにしか性的興奮を抱かない人のことです。三十年ほど前には「二次コン」と呼ばれていたようで、今にいたるまでネットや評論などでたまに言及されています。ですが、その生活や価値観について、当事者が発信することはあまりなく、実態が語られることもほとんどなかったと思います。

 というわけで、今回は一人の二次専として、率直な実感を書いてみようかと思います。テーマは、二次専から観た実写AV、です。(なお以下の内容はあくまで個人の感覚であり、他の二次専すべてに当てはまるとは限らないことをご了承ください)

 


 今でこそ、自分が二次専であることを違和感なく受け入れていますが、数年前には「実在する他者に欲情できないのはまずいのではなかろうか……?」という地味な葛藤がありました(そんなに強烈な葛藤ではなかったのですが)。「もしかしたら、このままではまずいのかもしれない」そんな意識から、あるとき一度だけ実写AVを視聴してみたのです。

 もちろん、いきなり本格的なAVを観ようとは思いませんでした。そもそも実在する人間に興奮する習慣なんてまったくありませんから、単にAVを観るだけではどうにもならないのは明らかです。そこで準備運動として、まずは某イラスト投稿サイトでお気に入りのエロ絵師さんの作品を鑑賞し、自らの性的興奮を高めます。そしてその後、ネットショップで公開されている、短いサンプル動画を試しに開いたのです。今では内容もうろ覚えですが、たしか和室で男女が延々といちゃいちゃしている感じの動画だったと思います。

 

 興奮しているときに実写AVを観れば、自分の中の欲情回路に実写AVを組み込めるのではないか? そんな発想のもと、自己暗示をかけるようにして実写AVを視聴したのです。

 

 では、当時の僕はAVに興奮できたのでしょうか?
 ……まぁ、大方の読者が予想するとおり、答えは「NO」です。

 

 むしろAVが始まった瞬間、すうっと性欲が引いて、胸の奥が冷めていったのです。
「……この人たちは何をやっているのだろうか」
 これが、僕の実写AVに対する率直な感想でした。

 

 たとえて言うなら、僕が実写AVに対して抱いた感覚は、「いい年した大人がポケモンごっこをやっているのを、延々と見せつけられている」ような感覚です。もちろん、ポケモンごっこの中にも、以下の動画のように(コントとして)クオリティが高い作品はあります。

 

 

 ただ、この動画はあくまでもメタ的なコントであり、かつ映像の加工等もやっているから面白いのです。もしも大人が、ネタではなく、大真面目にポケモンごっこをやっていたら、そしてそれを無加工のまま見せつけられたら、どうでしょう。馬鹿馬鹿しく思うと同時に、なんともいたたまれない気持ちになるのではないでしょうか(ちなみに、同じ理由でマンガの実写化も基本的に無理です。ただし『孤独のグルメ』だけは例外とする)

 

 僕が実写セックスを観たときに感じたのは、まさにこの気持ちです。
 つまり、性愛というものに対して現実味が感じられない、というわけです。

 

 もちろん生物学的な知識として、「人間は交尾することで子孫を残している」ということは知っています。ですが、それはあくまで知識にすぎず、僕の生活からは遠くかけ離れた別世界の話なのです。……これも例を挙げて説明した方がいいかもしれませんね。

 

 たとえば、量子力学的には「光は粒子であると同時に波である」と言われています。ですが、それを知っていたとしても、日常生活を送っているかぎりにおいては「光は粒子であると同時に波である」ということを実感できませんし、ましてやリアリティを感じることもありませんよね。

 

 僕にとってのセックスは、量子力学みたいなものです。

 

 知識としてはとても興味深いですが、まったく実感できるものではないし、実感したいと思うという発想すら出てきません(「光は粒子であると同時に波である」という情報を身体で実感したいと、心の底から渇望できますか? ごく少数の物理学者たちはできるのかもしれませんが、僕は無理です)。

 

 このように書くとよく誤解されるので言っておきますが、「モテないから二次元に逃避した」というわけではありません。むしろモテるモテないを気にする年頃になる前から、すでに「性愛は二次元の概念」という感覚だったのです。僕を含めて最近のオタクは、本田透の『電波男』のようなオタク観とはかなりズレがあると思いますので、その点にはご注意ください(僕自身、本田透とは二回り以上歳が離れていますし)

 


 気の向くままに書き連ねてみましたが、二次専から観た実写AVというのは、「いい歳した大人が大真面目にマンガの真似事をしているのを延々と見せつけられる」という、もはやちょっとした罰ゲームだということがお分かりいただけたかと思います。

 

「人間はある程度成熟したら、みんなセックスしたがるんだ」という思い込みを持っている方がしばしば散見されますが、他人とセックスするという営みは決して普遍的なものではありません。そのことを指摘して、今回は筆を置かせていただきます。

 

・関連記事

 

「ポルノは健康上の危機」は本当なのか?――ポルノに関する心理学的研究まとめ

セクシュアリティ

 

 アメリカ心理学会のレビュー記事 "Is pornography addictive?"の簡単な要約をTogetterにまとめてみました(この場で書き足すことは特にありませんが、当ブログからリンクを貼るためという意味で一応記事を立てた次第です)。

 

 元記事は、ポルノグラフィが恋愛関係におよぼす影響ポルノに中毒性はあるのかという議論について、近年の研究結果がまとめられた良レビューです。興味のある方は上記まとめに加えて、ぜひ下リンクの元記事(英文)もご覧ください↓

http://www.apa.org/monitor/2014/04/pornography.aspx

「性でつながる社会」に抗して――坂爪真吾『男子の貞操』批判

セクシュアリティ 読書 主要な記事

 

男性は、自分の性を、自分の身体感覚を通して、自分の言葉で直接語るための語彙や文化を持っていない。それゆえに、女性の身体の評価や採点、支配や売春を通して、間接的に自らの性を語ることしかできない。(『男子の貞操』p.9)

 坂爪真吾『男子の貞操 ――僕らの性は、僕らが語る』は、上記のような問題に真っ向から立ち向かう評論です。このような問題意識は、現代において性や愛を考える上で極めて重要であり、この問題を明確に打ち出したという点だけで、この本は充分に評価できるものでしょう。

 

 ところが一方で、この本はある重大な欠点を抱えてもいます。
 それは、人間関係を築く上でセックスを特権化している、という点です。

 

 坂爪氏は、「現代の社会でなぜ童貞が問題視されるのか、なぜ童貞であるということについて悩む人が多数いるのか」という問いを立てます。それに対する坂爪氏の回答は、「セックスへの動機付けそのものが無い」というものです。

 今の世の中では、セックス以外にも様々な娯楽があり、また多様な方法で人間関係を作ることが可能になっています。そのため、セックスの価値が相対化され、人々はセックスをしたいという動機を失っている、というわけです。

あるのは、「しなければならない」という焦燥感や、「しないと、男としてダメな気がする」といった劣等感だけ。いずれも、童貞を批判的に捉える同性の眼差し、世間の眼差しを内面化することで生じた感情であり、そこに、本来いるべき女性の姿はありません。(『男子の貞操』p.96)

 

 このような問題意識からは、当然「動機がないなら、無理にセックスしなくてもいいじゃないか」という反応が出るでしょう。しかし坂爪氏は、そのような発想を切り捨てます。

 しかし、セックスは、単なる娯楽や趣味ではなく、次世代に命をつないでいくためのライフラインであり、僕たちが、社会の中で孤独にならずに生きていくため、他者との絆を作るための命綱でもあります。
 童貞であること=セックスができないということは、「性欲が処理できなくてかわいそう」「いい年をして恥ずかしい」という次元の問題ではなく、「他人との絆が作れない」「未来の子どもたちとの絆がつくれない」ということを意味します。個人的な欲望やプライドの問題ではなく、社会的な絆の問題です。(『男子の貞操』p.108)

 上記のような考え方に、この本の問題点が深く刻み込まれています。

 つまり坂爪氏は、セックスを「1:いま生きている他者との絆作りのため」「2:未来の子どもとの絆づくりのため」の特別な行為であると位置づけているのです。では、この考え方からいかなる問題が生じるのでしょうか。

 


・セックスでつながる必要はない

 

 そもそもなぜ私たちは、性を通じて他者と繋がらなければならないのでしょうか?

 身近にいる人のことを思い浮かべてみてください。

 あなたの近くにいるのは、恋人だけでしょうか? そんなはずはないでしょう
 大切な友達が、異性同性を問わず存在するはずです。今は身近にいなかったとしても、過去に仲の良かった友達がいたことがあるという人は多いと思います。

 

 私たちは、性を通じなくとも他者とつながることができるのです。
 にもかかわらず、坂爪氏は他者とつながる手段としてセックスを強調してしまいます。

 

 たとえば坂爪氏は、性でつながる関係のために「利他的なセックス」を称揚します。

セックスを、自分目線(=自分の性欲の処理・発散目的)ではなく、相手目線(=相手との絆をつくるための手段)で考えて、時間と労力をかけて、相手との絆をきちんとつくった上で、セックスに臨むこと。これが、「利他的なセックス」の定義です。(『男子の貞操』p.113)

 仮にセックスをやるとすれば、確かにこのようなセックスは望ましいものでしょう。

 ですが、「利他的」であることが求められるのは、なにもセックスに限った話ではありません。友情を築くときにも、ある種の利他性は必要とされるはずです。

 他者とつながる手段として、セックスが特権化される理由はないのです。


 とはいえ『男子の貞操』の中には、(申し訳程度ですが)身体を交わすセックスが特権的ではない、という含意の記述が出てきます。その部分を引用してみましょう。

実は、異性との会話、及びそれに伴う濃密な時間の共有体験、それ自体が、セックスの一種なのです。「身体でセックスする相手」が配偶者であるとするならば、ガールフレンドは「言葉でセックスする相手」です。身体を伴わない、言葉でのセックスであれば、浮気や不倫にはなりませんし、誰も傷つきません。それゆえに様々な分野・世代の相手と、同時並行的に楽しむことができます。さらに、将来、加齢や病気で、身体的な性機能が不自由になった時も、引き続き「セックス」を楽しむことができます。(『男子の貞操』p.205)

 もちろん、「異性との友情が重要である」という主張には同意します。

 ですが、そのような異性間の友情をも「性的な関係」として定義してしまうことは、男/女を社会的に分離してしまうことになりかねません

 

 現代の社会では、「性的なもの」はプライベート(私的)な領域に属すべきものとされています。そして「性的なもの」がパブリック(公的)な領域へと露骨に出てしまうと、私たちは一種の滑稽さを感じるはずです。

 たとえば、「登場人物が全裸のまま街へ放り出される」というシチュエーションはギャグアニメでしばしば描かれるものですよね。そのような状況に対して、視聴者は滑稽味を感じて、笑いをこぼしたり、その登場人物をバカにしたりするはずです。

 

 このように、「性的なもの」がパブリックな場に出ると、滑稽なものとして取り扱われるのです。それゆえ、「異性との関係はすべてある種の『セックス』である」と設定してしまうことは、女性が職場などのコミュニティに参入することを阻害しかねないのです(逆に男性が育児にかかわるとき、保護者コミュニティに参入することを阻害する結果にもつながります)。

 性的なつながり、セックスによるつながりを強調することは、ある種の社会的排除と紙一重なのです(※)。

 そもそも性的なつながりというものは、過去から現代に至るまで過剰に強調されてきたものなのですから、むしろさらなる相対化が必要なのではないでしょうか。

 

 

・「性の記号化」の再評価

 

 性的関係を相対化する上で有効だと考えられるのが、「性の記号化」です。

 現代のアダルトメディアでは、「人妻」「お姉さん」「巨乳」「セーラー服」などのような詳細な分類が行なわれており、アダルトメディア使用者はこれらの条件によって性欲を喚起されています。このような「記号」に対して性的に興奮する状態を、「性の記号化」と呼びます。

記号は、女性の身体的・社会的特徴や、身につけているコスチューム、置かれているシチュエーションを抽象化したもので、女性個人の人格から切り離された、実体の裏付けの無いイメージです。(『男子の貞操』p.15)

 このような「性の記号化」に対して、坂爪氏は次のような批判をしています。

こうした「記号化された性」の消費に耽溺することの副作用として、僕たちは、生身の女性に出会った際にも、ついつい記号的な視点(美人か否か、巨乳か否か等)だけで、その女性の魅力を、表面的に評価・採点してしまう傾向があります。(『男子の貞操』p.19)


 確かに、生身の女性を性的記号として評価することは、極めて問題のある振る舞いと言えるでしょう。

 ですが、そもそもなぜ「生身の女性」を評価するのでしょうか?
 それは、セックスが生身の人間と「やる」ものだという固定観念があるからです。

 生身の女性とセックスを「やる」という文化でなければ、そもそも男性は生身の女性を一方的に「評価」するようなことはしないはずです。

 

 先ほども引用したとおり、「記号化された性」とは、「女性個人の人格から切り離された、実体の裏付けの無いイメージ」です。そしてこの「記号化」が問題となるのは、生身の女性から切り離された「記号」を再度生身の女性に押し付け直すときです。だとすれば、記号を記号として切り離したまま、生身の人間から性を乖離させれば問題はなくなるのではないでしょうか。

 

 このような主張に対して、「AV女優はそもそも『生身の女性』ではないのか」と思う方もいるかもしれません。実際『男子の貞操』で坂爪氏が触れているように、性風俗産業には様々な問題が含まれています。これらの問題を無視して、生身の女性に記号を押し付けることは決して是認できません

(引用)あなたがその女性のヌードを見れば見るほど、その女性のヌードにお金を払えば払うほど、その女性のヌードの価値、そして女性本人の社会的評価は低下していきます。予め女性を廃棄することを前提にして回っているビジネスモデルが、そこにはあります。(『男子の貞操』p.76)

 ですが、もし仮にすべてのアダルトメディアがイラストやアニメなどの二次元表現になれば、どうでしょう。それこそ、「生身の女性」が介在することのない、純粋に「記号化された性」ではないでしょうか。

 

「フィクションを性的対象とすること」は、「実在する他者を性的対象とすること」に比べて価値の低いものだとみなされています。ですが、そのような「他者と関係を結ぶためのセックスこそ至高」という格付けこそ、時代に合致しない不当な発想なのです。

 

 実際、「性でつながる社会」への反発は、数十年間に渡ってじわじわと拡大してきています。
 古い例で言えば、戦後フェミニズム運動の一部に、性愛からの自由を求めて女性同士の友情関係を強調したものがありました。
 90年代までのオタクを「恋愛資本主義への反逆」として力強く肯定した本田透も、この系譜に含まれるでしょう。
 最近で言えば、「草食系男子」という言葉が典型的な例ですね。

 これらの現象を、「男性性/女性性の喪失」という性別二元論的な枠組みで捉えるのではなく、「性でつながる社会」という社会構造の観点から解釈し直すことが必要になっているのです。

 

 

  考えてもみてください。

 セックスする動機がないのにもかかわらず、どうしてこれほどまでセックスへと追い立てられなければならないのでしょうか。なぜ私たちは「性」でつながらなければならないのでしょうか?

 

 普通の行為は、動機がなければ実行しないでしょう。

 ところが坂爪氏が指摘するように、性愛は動機や必要性がないにもかかわらず多くの人がやっています。というより、「社会の空気」に従って「やらされている」のです。

 このような社会の空気、すなわち「性を介してしか異性とつながれない」という発想や、「性的に他者とつながれなければ不幸」という発想は、現実恋愛至上主義の病毒であり、むしろ人間関係の可能性を奪うものです

 

「性愛に対する動機づけの喪失」や「性の記号化」といった、現代の趨勢に真っ向から対立し、旧来的な身体関係を理想化するのは、ある意味で保守的な幻想であり、現実的ではありません。

 どころか、「性愛に対する動機づけ」を強引に回復させようという主張こそ、性愛への強制性が具現化したものではないでしょうか?


 私たちは、もう「性」でつながる必要はありません。
「性」でつながらないことに、劣等感を抱く必要もありません。
 実在する他者を性的に求める必要は、どこにもないのです。

 

 

セックスレス少子化の安易なこじつけ

 

 次に、「未来の子どもとの絆づくりのため」のセックス、という議論について。

 『男子の貞操』に限らず、「セックスしなければ子どもはできない。だから皆さん、もっとセックスしろ!」という主張はいたるところで散見されます。しかしこの論理は、大きな飛躍を含んだものです。


 確かに、セックスしなければ子どもはできないでしょう。ですが、セックスしても必ず子どもができるわけではありません。むしろ回数で考えれば、妊娠につながらないセックスの方が圧倒的に多いはずです(カップルが一生の間に産む子供の数と、一生の間にセックスする回数、どちらが多いかは明らかでしょう)。

 

 現代では、避妊技術や生殖医療技術の向上によって、セックスと生殖との結びつきがかなり解かれています。そのことを無視して、セックスと子孫との関連を強調しすぎることは、「現実恋愛至上主義」を不当に煽ることであり、「性でつながる」ことを強制する「空気」に加担することにしかなりません。

 

 もしセックスが「未来の子どもとの絆づくりのため」だというのであれば、子どもを作ろうとするときだけセックスすれば良いのです。子どもを作ることの重要性が下がらないのであれば、セックスの重要性が下がったとしても、「子どもを作る」という理由だけで人々はセックスをするでしょう。

 

 多くの論者がすでに指摘しているとおり、少子化は経済的側面から発生する問題です。少子化に対しては、経済的・社会的な支援で対応すればいいのです。

 それゆえ、セックスの重要性を引き下げることと、少子化対策とは、問題なく両立すると言えます。

 


 ……というのが、「子どもを残すことは善いことだ」という前提を受け入れた上での反論でした。

 ですが、そもそも「子どもを残すこと」は本当に「善いこと」なのでしょうか?
 「未来の子どもたち」を産み出すということ自体が、現在生きている人間たちの身勝手極まりない行為ではないと、誰が言いきれるのでしょうか?

 そういった根源的な問いを無視して無邪気に子孫繁栄を褒め称えることに、どうしても違和感を禁じ得ません

 


・良いセックス、良いオナニーについて

 

 もう一点だけ、『男子の貞操』で気になった箇所を指摘しておきます。

『男子の貞操』で、坂爪氏は性的快楽について「タブー破り型」と「積み重ね型」に分けて論じています。

 

「タブー破り型」の快楽とは、「禁じられているルールを破ったり、隠されているものを覗き見る」ような類の快楽を指します。坂爪氏によれば、これらの快楽は「誰かを犠牲にしたり、抑圧・差別したり、排除したりすることによってしか成立しえない」ものです(『男子の貞操』p.26-27)。

 

 対して「積み重ね型」の快楽とは、「特定の相手との人間関係や思い出を積み重ねることで、その相手に対する感情的な信頼を深めていく過程で得られるタイプの快楽」のことです(『男子の貞操』p.28)

 

 このような区分を用いながら、坂爪氏は「ポルノグラフィを用いたオナニーは『タブー破り型』であり、本物の快楽ではない」と暗に主張します。

 ここには坂爪氏の、セックスは「他者とつながるために」「やる」ものだ、という偏見が如実に表れています。

 

 はっきり申しておきますが、ポルノグラフィを用いたオナニーもまたある種の「積み重ね型」の快楽となり得ます。
 以前の記事でも書いたとおり、オナニーには「自己の身体との対話を積み重ねてゆくことによって、自分自身を豊かにしていくためのもの」という重要な側面があるのです。

オナニーとは、「空想世界」という自己身体を開発していく営みでもあり、また自己の内に生まれた他者と対話する営みでもあります。(自己身体との対話――よりよいオナニーのための覚書 - 恋愛自給自足の間より)

 上記の記事で私は「視覚と性器的快感のみに依存したオナニーは、貧困なセクシュアリティである」という議論をしていますが、ポルノグラフィを「独りよがりで暴力的な記号」とのみ捉える視点も、同じように「貧困なセクシュアリティ」と言わざるを得ないでしょう。

 


・要約

●「性でつながる」社会こそが問題である
● 性を「記号化」し、身体を性から解放すべき
● セックスの相対化と、少子化対策は両立する
● ポルノグラフィを用いたオナニーもまた重要なセクシュアリティである

 

・関連記事

 ↑オナニーの本質的な意味を辿りながら、よりよいオナニーのための理念を考察

 

・注釈

※確かに坂爪氏が指摘するとおり、「公の場に性的なものを持ち込むのは滑稽である」という規範のせいで、男子が性について真面目に語れなかった側面はあります。ですが坂爪氏の解決策は、「性について真面目に語ることは、性的な(≒いやらしい)ものではなく、決して滑稽ではないのだ」と主張するというもので、結局「性的なものは公の場に出るべきではない」という規範を受け入れているものにすぎません。それゆえ、性的なものによる男/女の分離は、坂爪氏の発想では解決できないのです。

 

注)『男子の貞操』に関して坂爪氏は、「便宜上、異性愛の男性を対象としていますが、処方箋の内容自体は、同性愛の男性にもそのまま応用可能です。ぜひ参考にしてください。」(『男子の貞操』p.52)と述べています。当記事でも便宜上、異性愛の男性を対象とした言葉を用いておりますので、必要に応じて語句を読み替えていただくようお願いいたします。

自己身体との対話――よりよいオナニーのための覚書

セクシュアリティ 主要な記事

 

「視覚と性器的快感のみに依存したオナニーは、貧困なセクシュアリティである」


 このような議論をする方を(エッセイストやツイッター上のフォロワーさん等)最近よく見かけるようになりました。視覚だけでなく五感すべてを活用し、性器だけでなく身体全体を研ぎ澄ますことによって、オナニーにおいても豊かな性生活を送れるようになる、という話です。

 私自身このような主張には強く賛同します。

 

 標題に書いたとおり、オナニーとは自己身体との対話です。
 自分の心身の状態を思いやり、自分の快感の源泉はどこなのか気を配りながら、じっくりと自分の身体感覚を洗練させていく――。そのような自己身体の「開発」こそ、オナニーの醍醐味だと思います。

 

 ところで、ここでよく誤解されるのが、上に書いた「開発」の意味です。
「身体の開発」と言うと、たとえば「アナルオナニーの開発」や「乳首で感じられるようになろう」などのような発想が出てくるのではないでしょうか。もちろん、そういった「開発」も自分の身体と相談しながら、各自なりにやっていけばいい(やらなくてもいい)と思います。自由裁量です。

 

 ですが、ここで私が強調したいのは、「空想世界の開発」です。

 

 今回の記事を書こうと思い立ったきっかけは、以下のブログの文章でした。

私はポルノグラフィを「見ながら」オナニーすることはない。では、なぜポルノグラフィを読むのか。それは「ネタを仕入れるため」である。私は、基本的に、自作のオリジナルオナニーストーリーが、ベストポルノである。だが、いくら妄想力を活発にしても、想像力が貧困で、すぐに飽きてしまう。なので、他人が書いたポルノを参考にするのだ。私は、自分の妄想に近いポルノを読んでいると、じんわり欲情する。そこで、オナニーを始めたりはしない。そしてじんわり感とともに、ストーリーのネタを貯めておき、そこから新たなポルノグラフィを脳内で創作するのである。

(「オナニーは、セックスで代用できません - キリンが逆立ちしたピアス」より)

 

 これです。これこそ「空想世界の開発」であり、そして私が常々主張してきた「谷崎潤一郎はめちゃくちゃエロいぞ」という言葉の本質なのです。

 ツイッターで何度か書いたことがありますが、私のオナニーライフの中でも指折りなのが、谷崎潤一郎『春琴抄』をもとに妄想を発展させながらオナニーした体験です。

 ですが、実際に『春琴抄』読んだことのある方なら、こう思うはずです。
「オナニーの『おかず』として使える場面なんてあったっけ?」と。
 この作品には直接的な性描写はありません。しかし代わりに、作品を読めば分かるとおり、『春琴抄』で主人公とヒロインが性的に結ばれたことをほのめかす記述は作中のいたるところにちりばめられています。そして何より、谷崎の文体自体に、読者を惑乱するような色気があるでしょう。

 谷崎の卓越した美的センスによって、私の脳裏へと「オナニーストーリー」が一挙にほとばしってきたのです。これこそまさに、文学によって私の空想世界が「開発」されたという好例でしょう。

 

 このように、ポルノグラフィに限らずその他さまざまな創作物は、私たちの空想世界を開発してくれます。その積み重ねが、一人ひとりの性的空想世界における"財産"になるのです。

 

・オナニーの本質に迫る

 ところで、なぜ私たちはオナニーの最中に空想するのでしょうか? オナニーを現象学的に考察した金塚貞文『オナニスムの秩序』 をもとに考えてみましょう。

 

 そもそも私たちが性的に興奮するのは、どういうときなのか?

 それは、与えられた状況を、性的なものとして受け入れるときです。そして、自分が直面している状況を性的なものとして受け入れるかどうかは、私たちの「主体的な選択」にかかっています。

どんな状況にしろ、それ自体が性的であるわけではなく、われわれが「主体的に」それを性的なものとして選択するかぎりで(……)しか性的なものとは言い得ないのだ。(『オナニスムの秩序』p.67-68)

 ここで誤解してはいけないのが、「主体的な選択」という言葉です。注意してほしいのですが、これは私たちの理性的な判断を意味しているわけではありません。

われわれが頭で考え、判断を下す以前に、身体が、「選択し、限定」してしまうのである。身体は、その変化によって、ある状況が性的なものであることを示し、逆にまた、状況は、身体を変化させるかぎりで、性的なものとなるのである。状況の意味を判断するのは、まず第一に、身体、その変化なのだ。(『オナニスムの秩序』p.68 傍線引用者)

 私たちが直面した世界を、性的な状況として身体的に知覚すること。これが「性的興奮」の意味なのです。

 

 もし自分が直面している状況が最初から性的なものであるなら、わざわざ空想する必要はありません。つまり、オナニーにおいて空想を行うのは、そのときの状況が性的なものになっていないからだ、と言えます。

 性的でない現実世界から、性的な空想世界に移動すること。これがオナニーにおける性的空想の真意なのです。

 

 そして付け加えておくなら、このような性的空想世界への移動は、ポルノグラフィなどを観る場合にも同じように生じます。

絵や写真、あるいは文章、さらには現実の人間を見るにしても、事情は同じだ。それらは、現実世界の中の一つのものであることをやめ、そこから空想世界が広がる通路となるのであり、いわば空想世界の媒体にすぎない。(『オナニスムの秩序』p.66)

 

 さて、これまでの話をすこし整理しましょう

 

 自分が直面する状況が性的なものとなるのは、その状況を性的なものとして、身体で知覚するときです。それゆえ、自分の空想世界が性的なものとなるためには、その空想が自分の身体を性的に触発する必要があると言えます。

 一方で、オナニーのときに空想するのは、性的な状況が現実世界にないからです。つまり、オナニーしようとする人が、身体を触発するものとして、性的空想を求めている、というわけですね。

 

 ところで、ここに一つの循環が生じていることにお気づきでしょうか?

身体が性的なものとなるのは、性的空想によってであり、また、空想が性的なものとなるのは、性的身体(性的なものとなった――触発された――身体)によってであるという循環。(『オナニスムの秩序』p.73)

 つまり性的空想と自己身体との関係は、まるで自分の尻尾に喰らいつくウロボロスのように、同一のものだということです。それゆえ、オナニーする人が性的空想の中から感じ取っているものは、実際には自分の身体の性的うずきである、ということになります。

性的な空想とは、文字通り、自慰する人の身体の延長に他ならないのだ。(『オナニスムの秩序』p.73)

 

 一方でこの循環は、性的空想によって自分の身体が「空想上の自己」と「空想上の他者」とに分割されることでもあります。

 つまりオナニーにおいて、「触れる身体(たとえば手)」と「触れられる身体(たとえば性器)」とが、互いをある種の他者として知覚するのです。

言い換えれば、「触れる身体」が空想世界の他者の身体であるとき、「触れられる身体」は、自慰している人の身体であり、逆に「触れる身体」が現実の彼の身体であるとき、「触れられる身体」は、空想された他者の身体となるのである。(『オナニスムの秩序』p.75)

 その意味で、オナニーは「他者への身震い」であるとも言えるのです。

 

 以上のように、オナニーとは「空想世界」という自己身体を開発していく営みでもあり、また自己の内に生まれた他者と対話する営みでもあります

 

 自己身体の一部である「空想世界」を開発しつつ、一方で自己の内に「他者」を見出す。「空想世界」とは、ほかでもない自分の一部であるが、同時に自分自身を超え出る「他者」でもあるのだ。

 これを典型的に体現しているのが、マンガやアニメなどフィクションのキャラクターを性的対象とする営みだと言えるかもしれません。ある方のツイートを引用しておきます。

 

・まとめ

 現代では、「セックスは実在する他者と良い関係を育むために行われるべきである」という価値観が圧倒的多数を占めています。これはつまり、「性とは本来、他者との関係を育むためのものであり、それ以外の目的に性を利用するのは邪道であり劣等である」という価値観です。

 ですが、そのような固定観念にとらわれていては、「自己身体との対話」としての性、という側面を見落としてしまいます

 

 自慰とは、空想上の他者(=自己の一部)を性的他者として知覚することです。
 対して性交とは、実在する他者を性的他者として知覚することです。

自慰と性交とは、それが目ざす他者に違いがあるわけではなく、性的他者という同じ目標に至るまでの、二つの違った道のりにすぎない(『オナニスムの秩序』p.94)

 性は、自己の身体との対話を積み重ねてゆくことによって、自分自身を豊かにしていくためのものでもある。

 そのことを認識しないかぎり、現代の多様な性的営みを理解することは絶対に不可能だと言えるでしょう。

『友情化する社会――断片化のなかの新たな<つながり>』(著:デボラ・チェンバース)

読書

 

 「共同体」や「家族」が衰退している(と一部で嘆かれている)現代において、「友情」という概念が重要性を増してきている。たとえば、「友達のような親子関係」「友達のように平等な結婚」などが語られることも、今では珍しくないだろう。「友情」は自由で平等、そして不安定なものとして、現代社会の有り様を反映した関係性だと考えられている。

 

 そんな「友情」をキーワードに、社会学ジェンダー論、メディア研究、さらに哲学や思想までを体系的にまとめ上げたのが、『友情化する社会――断片化のなかの新たな<つながり>』 である。

 

 上に述べたとおり、「友情」という概念はある種の理想的なものとして、家族やカップルなど様々な関係にまで影響を及ぼしている。しかし一方で、友人関係がもたらす社会的影響にはジェンダー的な差があること、そして小中学校での友人関係を通じて性差別的な価値観が再生産されていることなども、本書は指摘している。


 たとえば著者・チェンバースらが調査した結果、「女性に対抗する男性の絆の形成が少年期に始まっている」ということが明らかになった。

私たちは十二~十四歳の少年少女を対象に、それぞれ同性だけのグループを作ってインタビュー調査を行ったが、少年たちには異性愛者であることをことばや行動で示すようにうながす強いプレッシャーがかかっていた。このプレッシャーは、少女に対する、あるいはまた、異性愛的男性性の基準から外れた少年に対する性的ないじめとなって発露する。
(p.102 第三章「ヘゲモニックな男性アイデンティティと男同士の絆」)

 

 女性の友情についても、肯定的な側面と否定的な側面をともに描き出している。本書では「家庭を持つ女性」「職業を持つ女性」「独身女性」の三つを個別に議論しているが、ここでは差し当たり二か所から引用しておく。

独身か結婚しているかにかかわらず、すべての年代と集団における女性の友情は、家族にとっての価値によって評価される。このようにして、女性の友情とそのネットワークは、「ケアする自己」という女性性の言説に拘束されているのである。
(p.122 第四章「女性のアイデンティティと女同士の絆」)

育児の責任を負う女性は、仕事帰りに一杯つきあうことができず、また職場での性的なポリティクスも、女性が男性と仕事上の関係を築くのを難しくしている。そうしたなかで、女性がもつ仕事上のネットワークは、男性同士のインフォーマルなネットワークに代えて、たがいの信頼感を生みだし、支援をうながすものとなっている。
(p.131 第四章「女性のアイデンティティと女同士の絆」)

 

 このほか、インターネットの発達が人間関係をどのように変化させたか、という点についても有意義な記述がある。

 ネットによって既存の関係性が破壊されているのではないか、と懸念する論者もいるが、逆に「ネットは既存の関係性を強化するとともに、遠く離れた相手とのコミュニケーションを促進するように作用」しているのだ(p.198 第6章「ネットワーク社会」)。また、「社会的に弱い立場にある集団やマイノリティ集団のネット利用に関する研究によれば、ネットには社会的平等と地位の向上をうながす大きな可能性が認められる」という指摘もある(p.203 同章)。

 

 以上のように本書では、ネット時代における"リアル"での人間関係、グローバル化時代のアイデンティティ形成のあり方など、多くの現代的問題についても重要な知見がまとめられている。

 

 一方で、原著の出版が2006年ということもあり、ネットや携帯電話に関するいくつかの調査が若干時代遅れになっている側面もある。しかし古びたのは個々の調査のみで、根本を貫く問題意識は、今でも間違いなく有益なものである。

 本書は現代の人間関係を考える上で、重要な出発点となる一冊だと言えよう。

・本書の目次

序章
第1章:社会的紐帯の理念の変容
第2章:対人関係における自由と選択
第3章:ヘゲモニックな男性アイデンティティと男同士の絆
第4章:女性のアイデンティティと女同士の絆
第5章:「共同体」の衰退と隆盛
第6章:ネットワーク社会
第7章:ヴァーチャルな親密性とオンラインでの交友
第8章:社会的関係性と個人的関係性のポリティクス

「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉の裏に潜む真意を問う

 

 下に引用するような意見をたびたび見かけるのですが、私は以前からずっと違和感を抱いてきました。

 このツイートを見ていると、「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が極めて皮相的に読み取られているように感じられてなりません。

「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が、どのような苦悩や葛藤、社会通念から出てきたものなのか、一度真剣に掘り下げる必要があるでしょう。

 

 まず最初に、上に引用したツイートに対して私が感じた印象を述べておきます。

「……この方は、自分が性犯罪加害者になる可能性を考えたことがあるのだろうか」

 

 言うまでもなく、性犯罪者は断固として処罰されるべきです。ですが一方で、「自分だって歯車が一つ狂うだけで性犯罪者になっていたかもしれない」という可能性は誰であっても否定できないでしょう。性犯罪について本気で考えていくと、「自分にも性犯罪を犯す可能性がゼロではない」という厳然たる事実に直面するはずです。

(女性であっても性加害者になる可能性がある、という点に違和感を抱く方もいらっしゃるかもしれません。ですが実際に、海外では女性がセクハラ加害者となっている事件が多々起きています。)

 

 とはいえ、自身の性加害可能性に追いつめられる人というのは、おそらく男性が大半でしょう。その理由は、男性の性欲や性行動に対する無根拠な思い込み=「神話」が蔓延しているからです。

 具体的には、「男性の性欲は本能的・衝動的なものであり、制御が難しい」というような思い込みです(坂爪真吾『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』p.58)。そして坂爪氏も指摘するように、このような「神話」は現在でも人々の頭の中に根強く残っています。

 

 なぜこのような「神話」がなくならないのか。理由は多々考えられますが、一つには「自分の思考や行動は自分にも完全には理解し切れないし、突き詰めていくと自分自身ですら信用し切れない」という根源的な難問が挙げられるでしょう。

 私は決して、現代人は自分の言動や思考を信用できなくなるほどに自信喪失している、ということを言いたいわけではありません。そうではなく、「主体性」というものを論理的に追求すればするほど、「主体性」が幻想としか考えられなくなる、というある種の哲学的難問のことを指摘したいのです。

 

 人間は、自分自身について掘り下げるにつれて、「自分」というものこそブラックボックスなのだということを意識せざるを得ないのです。

 自分の性のあり方がどのようなものなのか、究極的には確信することができないのです(もっとも、これは性に限った話ではありませんが)。

 

 とはいえ、仮に "男性の性欲は衝動的でケダモノのようなものだ" という「神話」がなくなったとしても、「自分も歯車が一つ狂えば性犯罪者になる、という可能性」を完全に否定することはできません。加害可能性について真剣に考えれば考えるほど、自分自身への恐怖や怒りは止めどなく湧いてきます。

 そのときの不安や絶望から逃れられる数少ない場所が、二次元なのです。 

  ある面において、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉は、自分の加害可能性に対する恐怖や絶望から命からがら逃れてきた人間の叫びだと言うことができるでしょう(もちろん、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」と言う人がすべての人がこのような思考をしているとは言いませんが)

 

  というわけで、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉を皮相的に捉えて揶揄する方々こそ、むしろ三次元性愛の加害性に対して無頓着すぎる気がします。

 

 私としては、三次元性愛=セックス実践文化が持つ暴力性や排他性をこそ問題にするべきだと考えています。

 下に引用する記事でも何度か述べてきましたが、二次元に対する批判と言うのは、はっきり言って大半が三次元性愛側の責任転嫁なのです。

  オタクが性犯罪を犯したとき、決まって「二次元が悪い」という罵声が上がります。

(中略)
 このときの論点は、「二次元も三次元も好きな人間が、三次元に手を出した」というところにあります。なので本来なら、後者の三次元性愛にこそ非難の矛先が向けられるべきなのです(たとえば、「実在する人間に欲情するクソブタが!」という具合に)。

 にもかかわらず、実際には「二次元が悪い」という非論理的な暴言が出てきます。

『オタクが同性愛差別と闘わなければならない2つの理由』より

 性行為と生身の身体が密接不可分に結びついてしまっているからこそ、性行為が身体を傷つけ、そして身体を経由して精神を傷つけるのです。そのような状況があるからこそ、「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうるのです。

 セックスが身体を交わして他者と「する」ものだとみなされている、そのような社会・文化でしか、二次元表現は問題化しないのです。

『オタク男子が本気でフェミニズムの論理を突き詰めてみた ~ラディカル・オタク・フェミニズム試論~』より

 

 二次元への批判や規制論は、単純な「表現の自由」の問題ではありません。

 三次元性愛という文化が、自身の問題を棚上げにしてスケープゴートを叩いている、という多数派の傲慢・暴虐こそが問題なのです。

 

 最後に、ある方のツイートを引用して結びとさせていただきます。

 

 関連記事