恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

なぜオタクが「三次元の女はクソ、二次元最高」と言うのか

 

 テレビに映る女性の振る舞いに苦言を呈しながら、「だから男が二次元に流れるんだ」などと言う人がしばしば見られます(このような言い方は非オタク層に多いように感じます)。あるいは抽象的なレベルで現実の女性全体を忌避しながら「三次元はクソ、二次元最高」と言う人も散見されます(オタク側から出てくるのは、主にこのような言い方である気がします)

 

 このような、二次元を讃えるときに三次元を貶す発言は、まったくもって二次元への愛ではありません。理由は単純で、「本来なら三次元を求めるのが正しいのだが、その正しいはずの三次元がクソだから仕方なく二次元に流れている」と言っているに等しいからです。そうである以上、「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言はオタク文化内からも厳しく批判されるべきだと言えます。

 

 ですが単なる個人レベルの批判のみにとどまってしまうと、「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言に潜む根本的な問題を見落とすことになりかねません。それゆえ批判するのに加えて、社会構造のレベルから問い直すことも必要になります。

 

 「三次元の女はクソ、二次元最高」という発言の謎は、なぜか関係のないはずの三次元が言及されているという点にあります。いったい何故なのか。ここにこそ着目するべきなのです。

 

 突然ですが、思考実験をしてみましょう。もしも二次元キャラクターを性的対象とする文化が多数派を占めている世界だったら? そのとき現実性愛を求める人は「二次元なんかゴミ、三次元最高」と言うのではないか。つまり二次元が覇権を握った世界では、逆に三次元への愛を語る際に二次元が言及されると想像できます。多数派を占める性文化が、「一般的な性」として準拠枠に据えられるわけです。

 

 では現実に視点を戻しましょう。「二次元の女はクソ、三次元最高」というように、三次元を讃えるために二次元を貶す人が、果たして世の中にどれだけ存在するでしょうか。おそらく極めて少数(というか、ほぼいないはず)です。つまりこの社会において、三次元を性的対象とする人は、ただ端的に三次元を愛することが容易にできるのです。

 

 これに対して二次元を求める人にとっては、「ただ端的に二次元を愛する」というそれだけのことが、容易ではありません。これは何故なのでしょうか。

 

 もしかすると、「『二次元はクソ』と言われないのは、二次元には理想しか存在しないから貶しようがない、というだけの話だ」と考える人もいるかもしれません。ですが「理想しか存在しない」のだとすれば、なおさら「ただ端的に二次元を愛する」ことなど容易であるはずです。にもかかわらず三次元を貶す言葉が併記されてしまうのは何故なのか。これこそが真に問われるべき問題でしょう。

 

 では、それは何故なのでしょうか?
 結論を言ってしまえば、ここには現実性愛中心主義の表出を読み取るべきなのです。

 

 つまり「性愛は現実でやるもの」という現実性愛文化が、あらゆる性行動に対する準拠枠として厳然と存在するせいで、現実性愛の影響から脱することができないのです。だから「二次元を性的に求める」という行為を語るために、三次元を突き放そうとする力学が働くのです。言い換えるなら、私たちの社会において現実性愛文化が「特権化」されているということです。そしてこの社会が「現実性愛を自明視する文化」であるということを、現実性愛を実践している人たちは気づくことすらできない、気づく必要もないほどに「特権化」されているのです(そして後述するとおり、このことが現実性愛の実践者自身にとっても不幸を引き起こしています)

 

 そうである以上、「三次元の女はクソ、二次元最高」という言説に対して「女性蔑視である」と批判するだけでは不十分です(そのような批判も当然必要ですが、女性蔑視はあくまでこのような言説の一側面でしかないのです)。それに加えて「三次元での性愛を準拠枠にする必要はないのだ」と声高に主張し、現実性愛の特権性を破壊しなければならないのです。

 


●現実性愛の「特権化」に絡む社会問題

 とはいえ、現実性愛の実践者からすれば、現実性愛の特権を破壊するのは百害あって一利なしだと思われるかもしれません。ところが、過剰なまでの「特別扱い」は、優遇される当人にとっても息苦しさを感じさせるものです。実際問題として、この社会があまりにも過剰に現実性愛を特権化するせいで、現実性愛を実践する人々ですらも多大な不利益を被っています。

 本来ならば様々な問題が生じているのですが、ここでは差し当たり二つだけ例を挙げておきます。

 

・「非モテ」論の根本的誤り

 現実性愛中心主義の最たる被害者が「非モテ」です。「被害者」というのは「本来ならモテないことに悩む必要などない」というニュアンスでもありますが、それ以上に「『非モテ』というキーワードでの問題化自体がナンセンスである」という面を指摘しなければなりません。

 

 そもそも性愛というのは、人間関係の副産物に過ぎないのです。この点については坂爪真吾の説明が簡潔に的を射ています。坂爪は「男女の生活と意識に関する調査報告書」のデータに基づいて、初めての性関係を獲得する経路について以下のように指摘しています。

全体の七割近くは、社会的ネットワークの中で知り合った相手、紹介してもらった相手と、初めてセックスに至るまでの人間関係を作っているのです。(坂爪真吾『男子の貞操』p.118)

 つまり恋人との出会いは、多くが友人やゼミやサークルや職場や地域などのような、社会的ネットワークを通じて発生するのです。なので恋人を作るための方法は、要約すれば「社会的ネットワークの中で、異性と出会う機会、異性を紹介される機会を増やす」ということになります(坂爪 2014: 117)。これはつまり、恋人の獲得というのは「社会的ネットワークへの貢献」による副産物という要素が強いということです(坂爪 2014: 133)。

 

 つまり、非モテ」や「恋愛格差」という言葉によって、あたかも恋人がいないこと自体が問題だとするスタンスは端的に誤りだということになります。本来ならば、「恋愛ができないという問題」と捉えるのではなく、「社会的ネットワークで上手く振る舞えないという問題」として提起をしなければならないのです。あくまでも恋愛は副産物に過ぎませんからね。

 

 にもかかわらず、副産物である「性愛関係」が前面に押し出されることによって、「恋愛以前の社会的ネットワークに関する問題」が「恋愛問題」にズラされてしまい、結果として「非モテ」に悩む人々を問題解決から遠のかせてきました。社会的ネットワークの中で上手く振る舞えないからこそ「モテ」で一発逆転したい、という倒立した苦悩を生じさせたのです。ここに、現実性愛中心主義によってもたらされた「非モテ」の受難が見出せるでしょう。

 

・制度に追い込まれる結婚

 あるいは、結婚が社会的単位の基礎として厳然と据えられている、という制度設計自体にも現実性愛実践者を苦しめる側面が強く存在します(このあたりの議論は筒井淳也『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 』(光文社新書)が参考になります)

 

 現在の日本の制度においては、婚姻家族がセーフティネットとしての機能を押し付けられています。たとえば「もし職を失ったとしても、他の家族が生活費を稼いでくれれば、落ち着いて再就職を準備するための猶予期間ができる」という具合です。逆に言えば、ケガや病気などで収入源を絶たれたとき、もし家族がいなければ辛い状況に陥りやすいということでもあります。

 

 つまり人生の戦略として、結婚して家族を持っておくことが一種の「保険」になっているわけです。この結果、結婚を望まない人であっても自己防衛の手段として家族を持つように駆り立てられてしまいます。また、不満足な結婚関係に陥ったときにも、「保険」がなくなるという理由で結婚を解消できなくなります。嫌々ながら家族関係を結ぶ、という苦しい状況が増えてしまうというわけですね。

 

 また、現実性愛中心主義が規範と化している現在、夫婦関係は愛によって結ばれるのが望ましい、とする価値観が人々に内面化されています。それゆえ「保険」としてしぶしぶ関係を維持している家族は、望まない関係を保ち続けながら、同時に、内面化された規範に背くという二重苦を味わうことになります。

 あるいは、夫婦間のセックスレスが不必要に問題視され、中年夫婦を無駄にセックスへ駆り立てようとする言説が出回っていることも、現実性愛中心主義の問題と言えるでしょう。

 要するに、現実性愛中心主義は制度と規範の双方から人々に負担を強いてしまっているわけです。

 

 そして言うまでもなく、結婚という閉じた二者関係が特権化されることによって、非二者間関係における性や親密関係が周縁化されてしまうことになります(つまり独身者やポリアモリーが冷遇されるわけです)。結婚制度は、ある種の現実性愛を特権化する装置でもあるのです。

 

 そうである以上、「現実性愛の特権性の破壊」には現状の結婚制度を改革することも含まれてくるでしょう。あえて大雑把に言ってしまえば、セーフティネットを国家が担い、家族の負担を減らすことが、二次元を性的に求める文化にとっても有利に働くと考えられるわけです。そして社会保障をカップル単位から個人単位に転換することも求められます。

 


● 結論、あるいは問題提起

 冒頭に述べたとおり、二次元を讃えながら三次元を貶す発言には二種類あります。

 一つは、非オタク男性が女性の振る舞いに眉をひそめながら「だから男が二次元に流れるのだ」と言うものです。このような発言に対してオタク側からは、「人を勝手に女性蔑視の道具にしないでください」と拒絶することが重要になります。

 もう一つは、オタク自身が抽象的なイメージなどから女性全体を怖れて「三次元はおっかない、二次元最高」と言う(本田透みたいな)ものです。これに対してオタク内からは、「それは二次元への愛ではない」と批判しましょう。

 そしてこの二パターンどちらについても、根っこには現実性愛中心主義の発露があります。それゆえ根本的には、「三次元を準拠枠にする必要はないのだ」と声高に主張し、準拠枠を破壊するべきなのです。そしてこのような準拠枠の破壊は、準拠枠の内部にいる現実性愛文化の側からも行われなければなりません。というより、むしろ現実性愛を実践する人たちこそが、三次元を準拠枠とする文化の中で(良くも悪くも)「特権化」されていることを自覚しなければならないでしょう。

 

 繰り返しますが、「三次元の女はクソ、二次元最高」と言う人達に対して、それが他者を蔑視する発言であると指摘するだけでは不十分と言わざるを得ません。「三次元の女はクソ、二次元最高」という言説の責任は、オタクだけにあるのではなく、現実性愛を営む側にもあるのです。

 もしこの説明を「三次元への責任転嫁」と感じるのであれば、それは現実性愛中心主義に毒されている証拠です。むしろ今まで様々な場面において、二次元が現実性愛文化から不当な責任転嫁をされてきたことを認識するべきでしょう。以下二つほどツイートを引用しておきます。

  現実性愛中心主義は、「性的対象は実在する人間であるべき」「性は人間関係の中でのみ"浄化"される」とみなすような、性を人間と結びつける価値観に基づいています。そして上述のとおり、現実性愛中心主義が現実性愛の実践者をも苦しめるものである以上、性と人間の結びつきをほぐすものとして二次元を積極的に位置づけることが望まれると思います。

 

 

・ちょっとした補足

 ジェンダーに関するの論争や研究は、「男/女」の線引きが絶対的ではないということを明らかにしてきました。これは単に「男/女」の境界が曖昧であるというだけではありません。「男/女」以外にも人間を二分する境界線は無数にあり、「男/女」という線引きもまた多数ある線引き方法の一つにすぎない、ということを示したのです。

 

 性や愛に関する境界線の引き方は「男/女」だけではありません。たとえば僕のような二次専にとっては、「男/女」の境界よりも「二次元/三次元」の境界の方が圧倒的に重要なのです(男性の中には食わず嫌いしている人も多いかもしれませんが、BLにはBLなりの面白さがあるので、読んでみるといいと思いますよ)

 

 二次元に描かれたキャラクターを、単純に現実の男女を表象したものとしてのみ捉える視点は、性別二元論を強化するものであり、ひいては男女双方への性差別を強化するものだということに注意が必要です(性差別というのは女性だけが被るものではなく、男性もまた異なる形で被っているものだ、というのは言うまでもないでしょう。それは男性と女性どちらがツライかという問題ではなく、どちらの性差別も解決するべきなのです)。

 

 

 すこし話は変わりますが、近年では同性愛差別への批判として、「多様な性を生きやすい社会」が求められています。それ自体は極めて正当なのですが、ときとして「多様な性を生きやすい社会」を目指すスローガンとして「みんな違って、みんないい」と言われることがあります。ですが真に「多様な性を生きやすい社会」においては、「みんないい」とすら言われないはずです。

 

 なぜなら、個々人のセクシュアリティが社会(≒人間関係)において過剰に重要視されること自体が、性を不自由なものとしているからです。そこで最終的には、社会にとって個々人の性が重要でなくなるような世の中を目指すべきなのです。言うなれば、「みんな違って、みんないい」の先にある「みんな違って、どうでもいい」の境地まで視野に入れるべきなのです(本当に「どうでもいい」のであれば、他人のセクシュアリティを気にして差別する事態が生じるはずはないですからね)

 

 そのような社会を目指す方法として、社会における性愛の価値を徹底的に引き下げることが重要になります。「社会」とは人間関係の集まりですから、つまり人間関係において性愛がどうでもよくなることこそが、逆説的に「多様な性を生きやすい社会」だと言えるのだと思います。

 そして「多様な性を生きやすい社会」こそ、オタクたちが「三次元はクソ」と言う必然性のない社会なのではないでしょうか。

 

 

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