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恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

応答:二次元表現に対するフェミニズム的批判が成立するための前提条件は何か

主要な記事

※この記事は、前回の記事の続編という位置づけです。なるべく今回の記事単独でも読めるよう配慮はしていますが、差支えなければ以下の記事を先に読んでいただけると幸いです。

 

 上の記事に対するねこ氏からの批判がこちらです。

 

  この批判を受けての考察、および応答を以下に述べます。

 

 前回の記事で、私はマッキノンによるポルノグラフィ批判について、「ポルノグラフィが『女性とは、セックスの時に使用されるものである』というプロパガンダである」と議論しました。

 これに対して、ねこ氏が指摘したように、『女性とは、性的に使用されるものである』という文言への訂正を受け入れます。

 その上で、以下で議論を展開しやすくするために、この文章を「女性というものは、性的に使用されるものである」と言い換えさせていただきます(この言い換えなら、文意は変化していないだろうと思います)。

 

 というわけで、マッキノンのポルノ批判は、「ポルノグラフィが『女性というものは、性的に使用されるものである』というプロパガンダである」というものだと言うことになります。

 

 さて、このプロパガンダが問題となるための条件とは何でしょうか。

 それを考えるために、まずは「女性というもの」とはそもそも何なのか、について考えてみましょう。

 

「女性というもの」とは「個々の女性の総体」という実体のあるものではなく、「女性一般」という観念・イメージです。そしてポルノグラフィにおいては、この「女性一般」が男性の性的対象となります(ここでポルノグラフィとは、抽象的な観念を性的対象とする装置であるとします)。

 

「女性というもの」すなわち「女性一般」を性的対象とする、とはどういうことなのか。社会で許容されているセックスと比較してみましょう。

 

 社会的に許されているセックスとは、以前の記事にも書いたとおり「相思相愛の仲にある二人が、互いの愛を確かめながら行うセックス」です。これは替えのきかない相手を対象としたものであり、つまり個別の相手に対する欲求・行為だと言えます。

 対してポルノグラフィは、基本的に替えがきかないというものではありません。つまり、画面に描かれた個別的女性表象を通して、「女性一般」というものを性的対象としていると言えます。

(もちろん、「女性一般」を性的対象とすることと「個別の相手」を性的対象とすることは、必ずしも厳密に割り切れるものではありません。ですがとりあえず、おおむね当てはまるだろうということで、議論を進めていきます)

 

 というわけで、ポルノグラフィに描かれる「男性の性的対象」は「女性というもの」である、と言えるでしょう。

 

 しかし現実問題としては、「女性というもの」と言われると「女体を持つ人間」を指している、と解釈されるのが一般的だと思います(もちろん厳密に言えば、女性である条件に「女体を持つ」ことは必要ではありませんが、ここではポルノグラフィと女性とのつながりに関する議論のために、便宜上このような言葉を使わせていただきます)

「女性というもの」と「女体を持つ人間」はそれぞれ別の言葉ですが、現在の社会通念では、ほぼ指示範囲が重なる言葉として使用されているというわけです。

 

 さて、「女体を持つ人間」と言うときに重要なポイントは、(「人間」という語が入っていることから分かるように)社会的に主体となりうる存在だ、ということです。

 

  では、本来なら主体であるべき女性が性的モノ化されるためにはどのような条件が必要でしょうか。

 

「女性というもの」が「男性の性的対象」である、というだけでは性的モノ化の条件が足りません。

「女体を持つ人間」が「女性というもの」であり、そしてそれが「男性の性的対象」であるこのような連結があってようやく性的モノ化の条件が整うのです。

 

 ここでいったん図式的に整理して、
・「女性というもの」をA
・「男性の性的対象」をB
・「女体を持つ人間」をC
 と置きます。

 

 A=B(つまり男性がポルノを使用すること)だけでは、まだ性的モノ化が生じるとは言えません。

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 C=A=Bという連結があることによって初めてC=Bという式が成り立ちます。つまりこの連結によって、主体であるべき人間がモノ化され(そして「沈黙化」され)るという事態が発生するのです。

 

 では、もう一つの要素として
・「二次元表象」=D
 を置いてみます。

 

 Dには個別的なキャラクターという側面も当然ありますが、一方で「女性というもの」という抽象的観念から作られたものでもあります。このことから、「二次元表象」は「女性というもの」である、つまりD=Aという式が成り立ちます。

 そして先に述べたとおり、ポルノグラフィという表現物を性的対象とすることは個別的ではない「女性というもの」を性的対象とすることです。よって二次元という表現物を性的対象とすることは、「女性というもの」を対象とすることであり、B=Aも成り立ちます。

 よって二次元を性的対象とすることは、「二次元表象」が「女性というもの」であり、それが「男性の性的対象」となっている、ということだと言えます。

 この段階ではCが入ってきておらず、したがってまだ性的モノ化が起こる条件は整っていません。

 

 以上のように、「男性の性的対象」が「女性というもの」である(すなわち男性がポルノグラフィを使用する)からといって、それが直ちに「人間」のモノ化につながるわけではありません。文化・社会の条件を考慮しないかぎり、ポルノ即モノ化、という結びつきに必然性はないのです。

 

 よって、「『女性』表象」を性的に享受していることが直ちに性的モノ化批判へと結びつくという主張には、論理の飛躍があると言えます。

 

 では、ポルノ使用が必然的に人間のモノ化へと結びついてしまう文化・社会とは、どのようなものなのでしょうか。それこそが、人間を性的対象とする文化であり、つまり「セックス実践文化」です。

 

「セックス実践文化」においては、「男性の性的対象」は「女体を持つ人間」だとされます。つまり、ポルノの有無以前にB=Cが絶対に成立しているのです。この図式が成り立つ社会において、マッキノンのポルノ批判は有効性を持ちます。

 

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 なお、「セックス実践文化」においてはB=Cが前提となっているため、二次元表象を性的対象とすること(B=D)が前提条件に引っ張られる形で、「二次元表象」は「女体を持つ人間」を表している(C≒D)ことになります
(※ただし表象自体は主体となり得ないため、実際には完全にC=Dとなることはない、という点に注意する必要はあるでしょう。このズレが、既存の社会規範に揺さぶりをかける可能性につながります。)

 

 セックス実践文化内で二次元表象を使用した場合の図がこちらです。

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 さらに言えば、1人の二次専がセックス実践文化の内部で生きているという場合、社会が「男性の性的対象」は「女体を持つ人間」である(B=C)という前提で動いていることから、二次専個人もまたCを性的対象としていると規定されてしまいます(やや極端な仮定ではありますが、現在の社会状況はこれに近いものだと思われます)
 二次専というのはあくまでも個人であり、社会・文化とは別の単位です。それゆえ二次専の意味づけもまた、社会全体の規範に左右されてしまうことになるのです(もちろん、個々人が声を上げていくことで、このような意味づけをずらしていくことは可能で、私はそこに希望があると考えています)。

 

 では逆に「セックス非実践文化」においてはどうか。より厳密に、ポルノ生産においてもセックス非実践である二次元性愛が社会規範に沿った性愛様式となっている社会では、どうだろうかという問いを立ててみましょう。

 まず前提として、男性は生身の女性を性的対象とすべし、という規範は「セックス非実践文化」にはありません。むしろこの文化は、生身の身体を性的対象としない文化です。つまりBとCがつながっていません(B≠C)

 ポルノグラフィ(B=A)に描かれるのは二次元表象(D)ですが、Dと女体を持つ人間(C)とをつなげる前提は存在しません(D=Cになるためには、B=CとB=Dが両方存在する必要がありますから)。

 つまり、ポルノの使用が主体たるべき人間へと接続していないのです。
 言い換えれば、「女性というもの」という抽象観念が「女体を持つ人間」という実体ある個々人と結びついていない、ということです。

 

 記号で整理すればこうなります。
 B=A
 B≠C
 ∴A≠C

 

 図で表すとこのようになるでしょう。

f:id:minadt:20151230191341j:plain

 

 このように、「女性というもの」という抽象観念が「女体を持つ人間」という個々の主体を指す必要はありません。実体と抽象観念の結びつき自体は恣意的なものであり、両者が連結しているのは特定の文化圏においてのみなのです。
 そのような文化から出てみれば、そもそも「女性というもの」「女性一般」という概念自体が不要あるいは不適切となるような社会も存在しうるのです。

 正確に言えば、「ポルノグラフィの使用は『女性というもの』を性的対象とすることである」という命題自体が自明ではなくなる、ということです。これは、ポルノグラフィが「女性というもの」を規定する、というマッキノン批判自体の前提を突き崩すものでしょう。

 

「ポルノグラフィが『女性というものは、性的に使用されるものである』というプロパガンダ」として、主体たりうる生身の人間へと襲い掛かるのは、ポルノグラフィを経由しつつ「女性というもの」と「女体を持つ人間」とがつながりを持つ場合だけです。

 

 そのようなセックス実践文化の内部において、二次専はその営みや価値観を掘り下げられないまま、批判対象として固定的に位置づけられるのです。

 

 というわけで、二次専もまた批判対象から逃れられないという主張は、それ自体がセックス実践文化の前提を押しつけていると言えるでしょう。

 

 ちなみに……。
 そもそも公/私の線引き自体いかなる必然性もないものです。
「他者を必要とする、複数人が関わると必然的に『公的領域(パブリック)』に入るというわけでは」ないのと同様に、現在の規範である「他者を必要とする、複数人が関わるセックスは私的領域に入る」という定義にも必然性はありません。
 こちらは今回のテーマからは逸れる話ですが、念のためということで。