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恋愛自給自足の間

恋愛における空想の重要性について。それと趣味。

「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉の裏に潜む真意を問う

 

 下に引用するような意見をたびたび見かけるのですが、私は以前からずっと違和感を抱いてきました。

 このツイートを見ていると、「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が極めて皮相的に読み取られているように感じられてなりません。

「萌えポルノをオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉が、どのような苦悩や葛藤、社会通念から出てきたものなのか、一度真剣に掘り下げる必要があるでしょう。

 

 まず最初に、上に引用したツイートに対して私が感じた印象を述べておきます。

「……この方は、自分が性犯罪加害者になる可能性を考えたことがあるのだろうか」

 

 言うまでもなく、性犯罪者は断固として処罰されるべきです。ですが一方で、「自分だって歯車が一つ狂うだけで性犯罪者になっていたかもしれない」という可能性は誰であっても否定できないでしょう。性犯罪について本気で考えていくと、「自分にも性犯罪を犯す可能性がゼロではない」という厳然たる事実に直面するはずです。

(女性であっても性加害者になる可能性がある、という点に違和感を抱く方もいらっしゃるかもしれません。ですが実際に、海外では女性がセクハラ加害者となっている事件が多々起きています。)

 

 とはいえ、自身の性加害可能性に追いつめられる人というのは、おそらく男性が大半でしょう。その理由は、男性の性欲や性行動に対する無根拠な思い込み=「神話」が蔓延しているからです。

 具体的には、「男性の性欲は本能的・衝動的なものであり、制御が難しい」というような思い込みです(坂爪真吾『男子の貞操――僕らの性は、僕らが語る』p.58)。そして坂爪氏も指摘するように、このような「神話」は現在でも人々の頭の中に根強く残っています。

 

 なぜこのような「神話」がなくならないのか。理由は多々考えられますが、一つには「自分の思考や行動は自分にも完全には理解し切れないし、突き詰めていくと自分自身ですら信用し切れない」という根源的な難問が挙げられるでしょう。

 私は決して、現代人は自分の言動や思考を信用できなくなるほどに自信喪失している、ということを言いたいわけではありません。そうではなく、「主体性」というものを論理的に追求すればするほど、「主体性」が幻想としか考えられなくなる、というある種の哲学的難問のことを指摘したいのです。

 

 人間は、自分自身について掘り下げるにつれて、「自分」というものこそブラックボックスなのだということを意識せざるを得ないのです。

 自分の性のあり方がどのようなものなのか、究極的には確信することができないのです(もっとも、これは性に限った話ではありませんが)。

 

 とはいえ、仮に "男性の性欲は衝動的でケダモノのようなものだ" という「神話」がなくなったとしても、「自分も歯車が一つ狂えば性犯罪者になる、という可能性」を完全に否定することはできません。加害可能性について真剣に考えれば考えるほど、自分自身への恐怖や怒りは止めどなく湧いてきます。

 そのときの不安や絶望から逃れられる数少ない場所が、二次元なのです。 

  ある面において、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉は、自分の加害可能性に対する恐怖や絶望から命からがら逃れてきた人間の叫びだと言うことができるでしょう(もちろん、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」と言う人がすべての人がこのような思考をしているとは言いませんが)

 

  というわけで、「二次元表現をオタクから取り上げたら性犯罪が増える」という言葉を皮相的に捉えて揶揄する方々こそ、むしろ三次元性愛の加害性に対して無頓着すぎる気がします。

 

 私としては、三次元性愛=セックス実践文化が持つ暴力性や排他性をこそ問題にするべきだと考えています。

 下に引用する記事でも何度か述べてきましたが、二次元に対する批判と言うのは、はっきり言って大半が三次元性愛側の責任転嫁なのです。

  オタクが性犯罪を犯したとき、決まって「二次元が悪い」という罵声が上がります。

(中略)
 このときの論点は、「二次元も三次元も好きな人間が、三次元に手を出した」というところにあります。なので本来なら、後者の三次元性愛にこそ非難の矛先が向けられるべきなのです(たとえば、「実在する人間に欲情するクソブタが!」という具合に)。

 にもかかわらず、実際には「二次元が悪い」という非論理的な暴言が出てきます。

『オタクが同性愛差別と闘わなければならない2つの理由』より

 性行為と生身の身体が密接不可分に結びついてしまっているからこそ、性行為が身体を傷つけ、そして身体を経由して精神を傷つけるのです。そのような状況があるからこそ、「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうるのです。

 セックスが身体を交わして他者と「する」ものだとみなされている、そのような社会・文化でしか、二次元表現は問題化しないのです。

『オタク男子が本気でフェミニズムの論理を突き詰めてみた ~ラディカル・オタク・フェミニズム試論~』より

 

 二次元への批判や規制論は、単純な「表現の自由」の問題ではありません。

 三次元性愛という文化が、自身の問題を棚上げにしてスケープゴートを叩いている、という多数派の傲慢・暴虐こそが問題なのです。

 

 最後に、ある方のツイートを引用して結びとさせていただきます。

 

 関連記事

応答:二次元表現に対するフェミニズム的批判が成立するための前提条件は何か

※この記事は、前回の記事の続編という位置づけです。なるべく今回の記事単独でも読めるよう配慮はしていますが、差支えなければ以下の記事を先に読んでいただけると幸いです。

 

 上の記事に対するねこ氏からの批判がこちらです。

 

  この批判を受けての考察、および応答を以下に述べます。

 

 前回の記事で、私はマッキノンによるポルノグラフィ批判について、「ポルノグラフィが『女性とは、セックスの時に使用されるものである』というプロパガンダである」と議論しました。

 これに対して、ねこ氏が指摘したように、『女性とは、性的に使用されるものである』という文言への訂正を受け入れます。

 その上で、以下で議論を展開しやすくするために、この文章を「女性というものは、性的に使用されるものである」と言い換えさせていただきます(この言い換えなら、文意は変化していないだろうと思います)。

 

 というわけで、マッキノンのポルノ批判は、「ポルノグラフィが『女性というものは、性的に使用されるものである』というプロパガンダである」というものだと言うことになります。

 

 さて、このプロパガンダが問題となるための条件とは何でしょうか。

 それを考えるために、まずは「女性というもの」とはそもそも何なのか、について考えてみましょう。

 

「女性というもの」とは「個々の女性の総体」という実体のあるものではなく、「女性一般」という観念・イメージです。そしてポルノグラフィにおいては、この「女性一般」が男性の性的対象となります(ここでポルノグラフィとは、抽象的な観念を性的対象とする装置であるとします)。

 

「女性というもの」すなわち「女性一般」を性的対象とする、とはどういうことなのか。社会で許容されているセックスと比較してみましょう。

 

 社会的に許されているセックスとは、以前の記事にも書いたとおり「相思相愛の仲にある二人が、互いの愛を確かめながら行うセックス」です。これは替えのきかない相手を対象としたものであり、つまり個別の相手に対する欲求・行為だと言えます。

 対してポルノグラフィは、基本的に替えがきかないというものではありません。つまり、画面に描かれた個別的女性表象を通して、「女性一般」というものを性的対象としていると言えます。

(もちろん、「女性一般」を性的対象とすることと「個別の相手」を性的対象とすることは、必ずしも厳密に割り切れるものではありません。ですがとりあえず、おおむね当てはまるだろうということで、議論を進めていきます)

 

 というわけで、ポルノグラフィに描かれる「男性の性的対象」は「女性というもの」である、と言えるでしょう。

 

 しかし現実問題としては、「女性というもの」と言われると「女体を持つ人間」を指している、と解釈されるのが一般的だと思います(もちろん厳密に言えば、女性である条件に「女体を持つ」ことは必要ではありませんが、ここではポルノグラフィと女性とのつながりに関する議論のために、便宜上このような言葉を使わせていただきます)

「女性というもの」と「女体を持つ人間」はそれぞれ別の言葉ですが、現在の社会通念では、ほぼ指示範囲が重なる言葉として使用されているというわけです。

 

 さて、「女体を持つ人間」と言うときに重要なポイントは、(「人間」という語が入っていることから分かるように)社会的に主体となりうる存在だ、ということです。

 

  では、本来なら主体であるべき女性が性的モノ化されるためにはどのような条件が必要でしょうか。

 

「女性というもの」が「男性の性的対象」である、というだけでは性的モノ化の条件が足りません。

「女体を持つ人間」が「女性というもの」であり、そしてそれが「男性の性的対象」であるこのような連結があってようやく性的モノ化の条件が整うのです。

 

 ここでいったん図式的に整理して、
・「女性というもの」をA
・「男性の性的対象」をB
・「女体を持つ人間」をC
 と置きます。

 

 A=B(つまり男性がポルノを使用すること)だけでは、まだ性的モノ化が生じるとは言えません。

f:id:minadt:20151230205625j:plain

 

 C=A=Bという連結があることによって初めてC=Bという式が成り立ちます。つまりこの連結によって、主体であるべき人間がモノ化され(そして「沈黙化」され)るという事態が発生するのです。

 

 では、もう一つの要素として
・「二次元表象」=D
 を置いてみます。

 

 Dには個別的なキャラクターという側面も当然ありますが、一方で「女性というもの」という抽象的観念から作られたものでもあります。このことから、「二次元表象」は「女性というもの」である、つまりD=Aという式が成り立ちます。

 そして先に述べたとおり、ポルノグラフィという表現物を性的対象とすることは個別的ではない「女性というもの」を性的対象とすることです。よって二次元という表現物を性的対象とすることは、「女性というもの」を対象とすることであり、B=Aも成り立ちます。

 よって二次元を性的対象とすることは、「二次元表象」が「女性というもの」であり、それが「男性の性的対象」となっている、ということだと言えます。

 この段階ではCが入ってきておらず、したがってまだ性的モノ化が起こる条件は整っていません。

 

 以上のように、「男性の性的対象」が「女性というもの」である(すなわち男性がポルノグラフィを使用する)からといって、それが直ちに「人間」のモノ化につながるわけではありません。文化・社会の条件を考慮しないかぎり、ポルノ即モノ化、という結びつきに必然性はないのです。

 

 よって、「『女性』表象」を性的に享受していることが直ちに性的モノ化批判へと結びつくという主張には、論理の飛躍があると言えます。

 

 では、ポルノ使用が必然的に人間のモノ化へと結びついてしまう文化・社会とは、どのようなものなのでしょうか。それこそが、人間を性的対象とする文化であり、つまり「セックス実践文化」です。

 

「セックス実践文化」においては、「男性の性的対象」は「女体を持つ人間」だとされます。つまり、ポルノの有無以前にB=Cが絶対に成立しているのです。この図式が成り立つ社会において、マッキノンのポルノ批判は有効性を持ちます。

 

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 なお、「セックス実践文化」においてはB=Cが前提となっているため、二次元表象を性的対象とすること(B=D)が前提条件に引っ張られる形で、「二次元表象」は「女体を持つ人間」を表している(C≒D)ことになります
(※ただし表象自体は主体となり得ないため、実際には完全にC=Dとなることはない、という点に注意する必要はあるでしょう。このズレが、既存の社会規範に揺さぶりをかける可能性につながります。)

 

 セックス実践文化内で二次元表象を使用した場合の図がこちらです。

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 さらに言えば、1人の二次専がセックス実践文化の内部で生きているという場合、社会が「男性の性的対象」は「女体を持つ人間」である(B=C)という前提で動いていることから、二次専個人もまたCを性的対象としていると規定されてしまいます(やや極端な仮定ではありますが、現在の社会状況はこれに近いものだと思われます)
 二次専というのはあくまでも個人であり、社会・文化とは別の単位です。それゆえ二次専の意味づけもまた、社会全体の規範に左右されてしまうことになるのです(もちろん、個々人が声を上げていくことで、このような意味づけをずらしていくことは可能で、私はそこに希望があると考えています)。

 

 では逆に「セックス非実践文化」においてはどうか。より厳密に、ポルノ生産においてもセックス非実践である二次元性愛が社会規範に沿った性愛様式となっている社会では、どうだろうかという問いを立ててみましょう。

 まず前提として、男性は生身の女性を性的対象とすべし、という規範は「セックス非実践文化」にはありません。むしろこの文化は、生身の身体を性的対象としない文化です。つまりBとCがつながっていません(B≠C)

 ポルノグラフィ(B=A)に描かれるのは二次元表象(D)ですが、Dと女体を持つ人間(C)とをつなげる前提は存在しません(D=Cになるためには、B=CとB=Dが両方存在する必要がありますから)。

 つまり、ポルノの使用が主体たるべき人間へと接続していないのです。
 言い換えれば、「女性というもの」という抽象観念が「女体を持つ人間」という実体ある個々人と結びついていない、ということです。

 

 記号で整理すればこうなります。
 B=A
 B≠C
 ∴A≠C

 

 図で表すとこのようになるでしょう。

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 このように、「女性というもの」という抽象観念が「女体を持つ人間」という個々の主体を指す必要はありません。実体と抽象観念の結びつき自体は恣意的なものであり、両者が連結しているのは特定の文化圏においてのみなのです。
 そのような文化から出てみれば、そもそも「女性というもの」「女性一般」という概念自体が不要あるいは不適切となるような社会も存在しうるのです。

 正確に言えば、「ポルノグラフィの使用は『女性というもの』を性的対象とすることである」という命題自体が自明ではなくなる、ということです。これは、ポルノグラフィが「女性というもの」を規定する、というマッキノン批判自体の前提を突き崩すものでしょう。

 

「ポルノグラフィが『女性というものは、性的に使用されるものである』というプロパガンダ」として、主体たりうる生身の人間へと襲い掛かるのは、ポルノグラフィを経由しつつ「女性というもの」と「女体を持つ人間」とがつながりを持つ場合だけです。

 

 そのようなセックス実践文化の内部において、二次専はその営みや価値観を掘り下げられないまま、批判対象として固定的に位置づけられるのです。

 

 というわけで、二次専もまた批判対象から逃れられないという主張は、それ自体がセックス実践文化の前提を押しつけていると言えるでしょう。

 

 ちなみに……。
 そもそも公/私の線引き自体いかなる必然性もないものです。
「他者を必要とする、複数人が関わると必然的に『公的領域(パブリック)』に入るというわけでは」ないのと同様に、現在の規範である「他者を必要とする、複数人が関わるセックスは私的領域に入る」という定義にも必然性はありません。
 こちらは今回のテーマからは逸れる話ですが、念のためということで。

オタク男子が本気でフェミニズムの論理を突き詰めてみた

 まず結論を述べてお来ましょう。
 二次元表現に対するフェミニズム的批判は、その多くが根源的な問題を見落としたものです。

 

目次

1: ポルノグラフィが「性差別である」と批判される理由
2: 「二次元表現に対するフェミニズム的批判」を掘り下げる
3: フェミニズムが真に批判すべきものは何か
4: 「性からの解放」へ――セックスと愛を相対化するために――

 

1: ポルノグラフィが「性差別である」と批判される理由

 

 二次元表現に対する批判は、基本的に三次元表現への批判と同じ論理です。

 というわけで、まずはキャサリン・マッキノンの論文「性差別としてのポルノグラフィ」を元に、なぜポルノグラフィが性差別となるのか整理してみます。

 

一: ポルノグラフィ制作時の暴力
 AV撮影時に暴力行為が行われる、という批判です。これは非常に分かりやすいもので、実際に訴訟に発展した事例もあります。また、女優としてAVに出演することを強制される事例も、問題点として挙げられています(「出演の強制」というのは、単に特定の個人や集団から強制されるだけでなく、貧困という社会状況から強制される、という場合も含まれます)。

 

二: ポルノグラフィの消費による暴力

ポルノグラフィの中の女性たちに強要されるあらゆる行為――彼女らはたいていの場合、あたかも自ら楽しんでいるように演じさせられる――は、ポルノグラフィの消費を通じて、さらに多くの女性たちに強要される。(『ポルノグラフィと性差別』 p.230)

  ポルノグラフィに描かれる(暴力を含んだ)行為が模倣され、実際の性行動に反映されるという批判です。

 ところで、通俗的なマッキノン理解ではこの点までしか把握されていませんが、彼女の批判はより根源的な部分に迫ります。

ポルノグラフィとは事実上、女の劣位を前提した社会において、女とは何であるか、女は何のために存在するか、女はどのように使われるべきかを示すものである。(同p.206)

 ポルノグラフィは、「女性とは何者であるか」を規定する力を持っているのです(もちろん、「女性とは何者であるか」を規定するものは他にも様々な要因がありますが、ポルノグラフィの影響は極めて大きい、というのがマッキノンの見解です)。ポルノグラフィは、「女性とは、セックスの時に使用されるものである」という価値観を形成します。つまり、ポルノグラフィは単に暴力的な性行動を広めるだけでなく、社会の「女性観」にも影響を及ぼすというわけです。

 マッキノンは、単なる行為の模倣にとどまらない問題点を指摘しています。この点は押さえておきましょう。

 

※余談ですが、上記のような批判が、「性的消費」という俗語の含意ではないかと推測しています。
 ネット上では「性的消費」という定義不明確な通俗概念が使用されるせいで、フェミニズム側の批判がぐちゃぐちゃになっています。意味を定義できない語句は、議論の妨げにしかなりません。なのでフェミニズム的批判を行う際には、「性的客体化」あるいは「性的モノ化」(より厳密に言えば「性的な従属主体化」)を用いるか、もしくは含意を明確に示せる用語を使っていただきたいところです。

 

2: 「二次元表現に対するフェミニズム的批判」を掘り下げる

 

 日本で二次元がフェミニズム的に批判される文脈には、以上ようなマッキノンの思想が引き継がれています(『マッキノンと語る/ポルノグラフィと売買春』参考)。

 

 さて、ここで考えるべきことは、次の二つです。
 一つ目は、上記の批判が二次元表現に当てはまるかどうか。
 そして二つ目は、当てはまるとすれば、そこにどのような社会状況が潜んでいるか。この二点目こそ、重要なポイントです。

 

 まず上に述べた「一」の批判
 これは当然ながら、二次元には当てはまりません
 制作時点で女性に危害を加えない性表現が、現代では浸透している。このことは後々に重要になってきます。押さえておきましょう。

 

 次に「二」の批判
 これは、ある条件下において二次元にも当てはまります。
 「ある条件」とは何か?
 それを考えるために、「二」の批判を整理してみましょう。

 

 マッキノンのポルノ批判には、二つの要素があります。
・ポルノグラフィに表現された性行動が、現実世界で模倣される
・ポルノグラフィが、「女性とは、セックスの時に使用されるものである」というプロパガンダとして機能する

 

 さて、この主張が道理にかなっていると言えるために、どのような前提があるのでしょうか。
 答えは、「人間は皆セックスをする」という前提です(もちろん、他にも様々な回答がありますが、今回の記事ではこの答えを採用して議論を進めていきます)
 フェミニズム的な二次元表現批判は、セックスをしない社会・文化では成立し得ないのです。

 

 では、セックスをしない社会・文化は存在するのか?

 今のところ多数派ではないだけで、間違いなく一定数存在します。
 たとえば「草食系男子」の中に一定数生息しているだろうということは、「若者の恋愛離れ」や「若者のセックス離れ」という言葉がささやかれている現状からも推測できるでしょう。また、二次元だけを性的対象とする「二次専」という人々も一定数います。

 

 つまり、「人間は皆セックスをする」という前提は決して自明ではなく、ある特定の文化圏でしか当てはまらないものなのです。そのような文化を、ここでは「セックス実践文化」と名付けましょう。

 

「セックス実践文化」の内部において、マッキノンの批判は一定の正当性を有していると言えるでしょう。ですが、世界は「セックス実践文化」だけで動いているわけではありません。少数であっても「セックス非実践文化」を生きる人間は存在し、むしろ近年勢力を伸ばしつつあるのです。

 このような時代において、「セックス実践文化」のみに当てはまるルールを社会全体に押し付けることは、まさに文化帝国主義であり、少数派文化の弾圧に他ならないのです。

 

3: フェミニズムが真に批判すべきものは何か

 

 さらに掘り下げていきましょう。
 マッキノン(および現在のフェミニズム)は、なぜ「人間は皆セックスをする」という前提に囚われているのでしょうか。
 それは、この社会が「現実性愛への誘導構造」に満たされているからです。

 

 ジェンダー研究では「強制的異性愛」という言葉が用いられています。
 これは、社会が異性愛を前提として動いており、非異性愛を自然と排除してしまう構図になっている、という問題を表した言葉です。
 これになぞらえて、現代社会には「強制的現実性愛」の規範が蔓延している、と言えるでしょう。つまり、「この社会に生きる人々は、みなセックスを実践する」という常識があることで、「セックス非実践文化」が見えなくなっているのです。

 

 たとえば「性愛」という言葉からも分かるように、現代の社会はセックスと愛情がガッチリと結びついており、そのせいで「セックスをすること」が重視されすぎているのです。

 

 性行為と生身の身体が密接不可分に結びついてしまっているからこそ、性行為が身体を傷つけ、そして身体を経由して精神を傷つけるのです。そのような状況があるからこそ、「女体は性的に使用するものだ」という言説がプロパガンダとしての機能を持ちうるのです。

 セックスが身体を交わして他者と「する」ものだとみなされている、そのような社会・文化でしか、二次元表現は問題化しないのです。

 

 ここで少し脇道に逸れますが、現在の多数派である「セックス実践文化」に潜む問題を一つだけ指摘しておきましょう。

 それは、セックスを私的領域に囲い込むことで生じる暴力です。

 現在の「セックス実践文化」のなかでは、セックスがある種の神聖なものとして取り扱われています。ですが、「神聖」という概念には「犯しがたい」という含意があり、それゆえに「禁忌(タブー)」と常に表裏一体なのです。

 

 つまり、セックスが神聖さを持つとされる社会において、セックスの価値は鮮烈な二面性を帯びることになります。

・セックスは、特別な状況の下では「聖なる儀式」とみなされる。
・それ以外の状況では、セックスは常に「滑稽で低劣な愚行」とみなされる。

 

 相思相愛の仲にある二人が、互いの愛を確かめながら行うセックスは「聖なる儀式」です。そしてそれ以外はすべて「滑稽で低劣な愚行」となるのです。
 このような背景から、セックスは「閉じられた私的領域で密やかに行うべき」という規範が成立します。

 ですが、セックスを実践するには必ず他者を必要とします。つまり厳密に言うと、セックスは純粋に孤独な「私的領域(プライベート)」ではなく、複数の人が関わる「公的領域(パブリック)」での行為なのです。
 にもかかわらず、二者間のセックスはプライベートなものとみなされています。そのせいで、セックスを「私的領域」の外部に出すことは「滑稽で低劣な愚行」となるのです。

 

 さて、このような社会状況において、性犯罪の被害に遭った女性が訴訟を起こした場合、どのような事態が生じるでしょうか。それを告発したのが、キャサリン・マッキノン『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』です。

あなたが一度性行為に使われると、性化されてしまう。そして人間としての地位を失ってしまう。あなたは性行為となり、だから信頼される価値がなくなり、もはや人間として侵害されることなどありえなくなる。あなたが性的に虐待されたという証言によりあなたが虐待を受けたことは証明されるが、同時にそれはあなたを性行為と定義し、そのためにあなたが性的に虐待を受けたことは信じがたくかつありえないこととなる。(『ポルノグラフィ』p.88)

 秘せられた私的領域で「性的な」暴力を受けたとします。それを裁判所という公的空間で語ることは、それ自体が「滑稽で低劣な愚行」とみなされてしまうのです。

「愛」を口実に性をプライベート領域に囲い込むことの危険性は、フェミニズムが長年に渡って指摘しているとおりです。

 

  ところでマッキノンは、上記の現象がポルノグラフィと同じ法則で女性差別を発生させているとしています。ですが真に問題なのはポルノグラフィではなく、セックスが神聖さを持つとされる「セックス実践文化」そのものの性質なのです。生身の身体を性的対象とみなす文化独特の問題なのです。

  この点からも、二次元表現批判が「セックス実践文化」の責任転嫁であるということが理解できるでしょう。

 

 つまりフェミニズム、二次元表現を批判する前に、自身が属する「セックス実践文化」をこそ改良すべきであり、「現実性愛への誘導構造」にこそ斬り込むべきなのです。

 

 ……というのが私の主張なのですが、もしかするとまだ納得できない方がいるかもしれません。二次元批判がどれだけ皮相的な批判なのか、説明いたしましょう。

 

 最近、カフェイン中毒で死者が出た、というニュースがありました。エナジードリンクやカフェイン錠剤を飲み過ぎたのが原因です。

 この事件からは、エナジードリンクやカフェイン錠剤の危険性がうかがえます。ですが、そこから「エナジードリンクやカフェイン錠剤を規制すべき」と攻撃するのは、言うまでもなく表面的な批判にすぎません。

 もう一段踏み込むと、死亡した男性は「エナジードリンクで多量のカフェイン錠剤をのみ下した」とのことです。ここから、「危険なカフェイン摂取がないよう適切な管理が必要」と言えるでしょう。ですが、これもまだ踏み込みが足りません。

 この事件の本質は、「いいから寝ろ!」です。カフェインに頼ってまで、寝ずに働かざる得なかった労働状況こそが問題とされるべきなのです。

 

 これと同じことが、二次元批判についても言えます。

 二次元表現が女性差別だ、というのは極めて表面的な批判でしかありません。

 「セックス実践文化」の住人が二次元を真似た、ということを批判すれば、一歩踏み込んだ議論と言えるでしょう。

 ですが本質は、「セックス実践文化」内部に潜む問題なのです。

 マッキノン(および現在のフェミニズム)のような批判は、むしろ「人間は皆セックスするものだ」という常識や規範を強化してしまうものです。短絡的な二次元表現批判は、セックスを実際にやること、つまり「セックス実践」の価値を不当に高めてしまい、むしろ自分たちの首を絞める効果をもたらしかねないと言えるでしょう。

 

※カフェイン問題は「労働状況に問題がある」と言いましたが、だからといって「労働を禁じろ」とは言っていません。同じように、「セックス実践文化」に問題があるからといって、直ちに「セックス実践を禁じろ」と言うつもりはありません。ご注意ください。

 

 4: 21世紀の「性解放」――セックスと愛を相対化するために――

 

 ここで問題となっているのは、「セックスが不必要なまでに神聖視されている」こと、そして「そのようなセックス観を疑うことができない構造になっている」ことです。

 以上ような、真に本質的な問題に対処するには、どうすればいいのでしょうか。

 

 必要なのは、「現実性愛への誘導構造」に穴を空け、「セックス実践文化」を相対化することです。

 上に書いた例から表現を持ってくれば、セックスを「神聖な行為/滑稽で低劣な愚行」としての地位から引きずり下ろすことが求められる、ということです。

 フェミニズム的に言い換えれば、「セックスは本来、複数の人が関係するという点で公的なものであるにも関わらず、中途半端に私的領域に秘匿されている。そのため公的領域で『女体=性的なもの』というレッテルを貼られることが、女性とは『公的に価値のないもの』だという烙印に結びつく」、というような現状を打破することが求められるわけです。

 

 そのために役立つのが、「セックス非実践文化」の存在です。

 

 マッキノンはポルノグラフィの危害を強く主張していますが、見方を変えれば、ある意味でポルノグラフィの効果を高く見積もっているとも言えます。

ポルノグラフィが描こうとしている現実よりも、ポルノグラフィのほうがより性的に押えがたい興奮を与えることが多い。つまり現実よりも性的にリアルなのである。(『ポルノグラフィ』p.42)
ポルノグラフィは単に現実を経験したりそれを解釈するだけでなく、ポルノグラフィそれ自身が経験の代わりとして機能する。(同 p.43)

 このような見方が正しければ、むしろセックス実践がポルノグラフィに取って代わられることも十分に考えられるでしょう。そして現代では、「制作時点で女性に危害を加えない性表現」があります。二次元です。つまり、「セックス実践なき性文化」というものが存在する時代なのです。

 そしてくりかえしますが、「セックス実践なき性文化」を生きる層は、一定数存在します。

 たとえば私のように「三次元の性愛に興味はない」という人間が挙げられるでしょう。あるいは、昨今の男性の「草食化」にも、「セックス実践は必要ない。ポルノで充分」という層が一定数表れているのではないかと考えられます(もちろん、すべての「草食系男子」がそうだと言うつもりはありませんが)

 

 では、この状況を歴史的に位置づけるとすれば、どうなるでしょうか。

 

 第二次大戦後、先進諸国で「性の解放」と呼ばれる出来事が発生しました。これは性に対するタブー意識を変革しようという運動で、正確に言えば「精神からの性解放」と呼ぶべきものでしょう。性行為を精神から切り離して、タブーに囚われない自由なセックス実践を目指した活動だったわけです。

 これと対比するなら、現在に表面化しつつある「性の解放」現象は、「身体からの性解放」すなわち、他者の身体から性行為を分離することです。

 

 なぜ、強い愛情を示す行動がセックスだけになっているのか。
 なぜセックスは他者とするものでなければならないのか。
 そもそも、なぜセックスをするのか。

 

 これまで自明とされてきた常識が、問い直される時代に来ているのです。

 

「身体からの性解放」には、二次元だけでなく、近年開発の進んでいるセックスロボットも挙げられるでしょう。さらに視野を広げてみれば、体外受精を中心とした生殖医療技術も、現代の性解放の一側面と言っていいはずです。あるいは、「身体的性別こそ文化的性別である」というジュディス・バトラーの議論もまた、ある意味で「身体からの性解放」の一環と言えるかもしれません。

 

 そもそも、なぜセックス実践が絶対的なものとみなされるのでしょうか。

 理由は、大きく以下の二つです。

1: 妊娠・出産のためにセックスが必要とされる
2:「セックスは愛情表現だ」という価値観がある

 そして、この二つを突き崩しうるものが、生殖医療技術(現在はまだ発展途上ですが)と「セックス非実践文化」なのです。

 

 閑話休題。話を性行為に戻しましょう。
 性行為にまつわる性差別を解消するためには、「セックス実践文化」の相対化が急務です。そのために有効な方法が、「セックス非実践文化」との競合です。

 

 性に関する様々な文化が共存(あるいは競合)している場として、「性文化のアリーナ(闘技場)」というものを想定してみましょう。

 近代における「性文化のアリーナ」では、実在する異性とのセックスが独り勝ちしている状態でした。ですが、「セックス実践文化」が覇権を握ったことで横暴に振る舞い、その結果として性行為にまつわる様々な差別や暴力が発生してきたのです。

 そこで現代は、非実在(二次元)や非人間(セックスロボット)などを「性文化のアリーナ」へと積極的に参入させ、「実在する他者との性行為」の価値を相対化することが有効となるでしょう。 

 

結論

 

 フェミニズム的な批判は、二次元表現が「セックス実践文化」のものである、という乱暴な前提に立ったものです(もっと言えば、男は皆「セックス実践文化」の住人だ、という前提に立つ方もいるぐらいです)。

 ですが、二次元は「セックス実践文化」だけのものではありません

 そして世界も、「セックス実践文化」だけのものではないのです

 

 フェミニズム的な批判の肝は、「非性的であるべきとされる公的領域で、女性が『性的なもの』というラベルを貼られることによって損失を被る」という点にあります。 

 ですがこれは、現実の女性を性的対象とする「セックス実践文化」特有の問題と言わざるを得ないでしょう。

 

 当たり前の話ですが、表現それ自体には、善悪の判断は一切含まれません。

 ある表現が「善」であるか「悪」であるかは、その表現がどのような社会・文化に置かれるかで決まります。

 二次元表現が「悪」となりうるのは「セックス実践文化」内部においてです。

 「セックス非実践文化」において、二次元表現は「悪」にはなりません

 フェミニズムによる短絡的な二次元表現批判は、「セックス実践文化」の責任転嫁以外の何物でもないのです。

 

 あえて極端な話をすれば、「二次元を潰せ」よりも「セックスを潰せ」の方がはるかに論理の通った主張です(ちなみに私のような「セックス実践なき性文化」の住民からすれば、「二次元を潰せ」は「セックスを潰せ」と同じぐらいの暴論です)。

 

  もし「既存の社会構造を変えるのは手間がかかるから、少数である二次元表現を批判し、既存の社会構造は温存しておこう」というのであれば、それは、私のような二次専への迫害行為です。少数の性文化を不当に攻撃する行為です。端的に言えば、多数派の暴虐です。

  また、セックスが永久不滅だいう思い込みも、視野が狭いと言わざるを得ないでしょう。むしろ、「条件が整えばセックス自体なくせる」というぐらいのラディカルさが必要ではないかと思います。

 

 そして、「セックス実践文化」自身の問題へと斬り込んでいくのであれば、そのときには私も全力で協力いたします。 

 

 私の意見は以上ですが、最後に溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』から引用させていただきます。少し長いですが、面白い指摘ですのでぜひ一読ください。

 BL愛好家の大多数が異性愛女性だ。現実世界で異性愛を実践する女性たちを「ゲイ」と呼ぶことは、もちろん一般的には正しくはないし、本人たちも自分が「ゲイ」だとは思っていない。だが、彼女達のセクシュアル・ファンタジーがBLの男性同士の表象で占められているとしたら、それでも彼女たちは一〇〇パーセント、ヘテロセクシュアル、といえるだろうか? ある三〇代の既婚の友人は、「今はそれほどでもないけれど、数年前まではダンナとのセックスも男女ものとして認識できなくて、頭のなかでBLに置き換えてHしてたこともある」と語ったが、男になって男に挿入されている、というファンタジーのもとに彼女が夫とおこなった性行為を、一〇〇パーセント異性愛だと定義づけられるだろうか?
 セックスを身体の行為であると定義づけるならば、答えはイエスだ。が、それは、セクシュアリティにファンタジーの次元をまったく認めないことである。一般的には、身体に実際に起こっている行為をセックスとみなし、頭のなかの妄想は性行為とはみなされない。しかし同時に、私たちは人間のセックスには頭脳(妄想)も深くかかわっていることを知っている。であれば、現実世界での相手のいる性行為と同時進行の妄想も、マスターベーションと同時進行の妄想も、さらには行為をともなわない妄想のみのいずれであっても、妄想主体にとっては重要な営みのはずだ。したがって、妄想の交換・交歓はヴァーチャル・セックスであるといえる。(『BL進化論』p233-234 一部傍点省略、太字引用者)

 

余談

 どんな表現も決して一義的な意味ではなく、常に「意味づけなおしの可能性」に開かれています。そのような点からポルノグラフィの法規制に反対するフェミニズム理論家がジュディス・バトラーです。彼女の著作『触発する言葉――言語・権力・行為体 』(岩波人文書セレクション)は、他人を傷つける言葉について徹底的に考察したもので、ポルノ問題に限らず人種差別や同性愛差別、そしてアメリカ政治を考えるうえでも必読書です。

 

 参考文献

キャサリン マッキノン, アンドレア ドウォーキン, 2002,『ポルノグラフィと性差別』中里見博, 森田成也訳, 青木書店.

キャサリン マッキノン, 1995,『ポルノグラフィ 「平等権」と「表現の自由」の間で』柿木和代訳, 明石書店.

溝口彰子, 2015,『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』太田出版.

ジュディス・バトラー, 2015,『触発する言葉――言語・権力・行為体』竹村和子訳, 岩波書店.

 

追記

この記事に対して、「『フェミニズム的な二次元表現批判は、セックスをしない社会・文化では成立し得ない』というのは誤りである」という批判を受けたため、それに応答する形でさらに考察を深めた記事がこちらになります。基本的な主張は変化していませんが、今回の記事で納得し切れなかった方や、今回の記事を批判しようと思う方は、差支えなければ一読ください。

気づいただろうか、『桜Trick』6巻カバーに仕掛けられた「トリック」に

 "o"のキートップが外れたり緊急の企画書作成に追い込まれたりなど不測の事態が続いております、皆藤禎夫です。さて、本当は今日中に提出しないといけない企画書があるのですが、それでもなお、どうしても書かなければならないことがあります。

 『桜Trick』6巻についてです。

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 今月発売の『桜Trick』6巻で描かれるのは、春香や優たちが過ごす二年生の冬です。最大の目玉は、澄の卒業式に至る数話でしょう。百合界でときおり異端視される『桜Trick』ですが、決して王道を外していないのが分かる神回です。ですが、それは読めばわかることです。わざわざこの忙しいときに取り上げるまでもないでしょう。

 私の見る限り、6巻のもう一つの目玉は、ゆず・楓コンビの進展です(もちろん、以前の巻からすでにフラグは立っていましたが)。

 たとえば、春香と優がいつものように些細なケンカをしているのを見た二人の反応がこちら。

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 ケンカするほど仲が良いんなら、ケンカしよう、というわけでしょう。
 ……なんて、わざわざ説明するのも野暮ですよね。
 このケンカごっこの結果がこちらです。

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(↑ゆず)

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(↑楓)

 ああ、初々しい青春。素晴らしき百合。ちなみにこれ以外にも、もっと百合百合しいゆず・楓カップルの場面がありますので、未読の方は早急に購入してください

 

 さて、ここからが本題です。
 6巻のカバー袖部分をご覧ください

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 ゆずと楓がこちらに向かって手を差し出している絵ですね。
 ですが、この手を「読者に対して」差し出されたものだと解釈するのは、もちろん百合的には邪道です。

我思う、ゆえに百合あり。だがそこに我、必要なし。(『百合男子』1巻より)

 では、このカバー袖イラストはどう観ればいいのでしょうか。
 思い出してみてください。6巻の隠れたメインはゆず・楓カップルです
 そう、この絵の正しい観方にこそ、桜Trick6巻の「トリック」が仕掛けられているのです。

 結論を示しましょう。正しい観方は、これです。

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 本を閉じたとき、読者に見えない場所で、二人は向かい合い、手を伸ばし合う。

 本を閉じてなお楽しめる百合模様。これこそが、6巻最大の「トリック」なのです! 
 あるいは、ゆず・楓カップルが6巻の目玉であることの証拠とも言えるでしょう。(写真が分かりづらくてすみません……)

 

 ところで、既刊のカバー袖はどうだったでしょうか。
 これまでに、カップルが向かい合う構図はあったでしょうか。確認してみました。
 確証はできませんが、向かい合っているように解釈できるものが一つだけありました。2巻です。

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 しかもゆず・楓カップル。

 当時はあまりにもさりげなく描かれており、まったく気づきませんでした。本編でも初期はあまりゆず・楓カップルが強調されることはなく、僕自身二人にはあまり意識を向けていませんでした(そして多くの読者もそうだったと思います)。ですが、2巻のカバー袖は、もしかすると二人の関係の伏線だったのかもしれません。


 初期からすでに、ゆず・楓カップルの成立が約束されていた……というのはさすがに、穿った見方でしょうか。判断は読者諸賢にお任せ致します。

 

※余談

 2巻の段階でゆず・楓カップルに着目していらっしゃる方を発見しました。先見の明を讃えてリンクを貼らせていただきます。(この方の『桜Trick』考察はとても丁寧で、つい既刊を読み返したくなります。ぜひご覧ください) 

関連記事:

女子校の百合はなぜ「"擬似"恋愛」なのか

 百合の中でも鉄板ジャンルとして人気を誇るのが、やっぱり女子校もの。大正期の少女小説花物語』(著:吉屋信子)に始まり、最近のものでいえば『青い花』(著:志村貴子)や『ゆるゆり』(著:なもり)など有名な作品も多いですね。

 

 ところで、「女子校で百合的な恋愛を経験したにもかかわらず、女子校を卒業したあとで結局男性と付き合ったり結婚したりする」という展開。これは古典的な少女小説から現代に至るまでいくつかの作品で描かれており、そして現実でもしばしば見られる現象です。

 ここで参考になるのが『女子校育ち』(著:辛酸なめ子)。女子校出身の著者が取材を行いながら書いた女子校レポートです百合を読む際の副読本にもオススメ。この本のなかに、女子校における(擬似)恋愛の実情に触れた部分があります。

 なかでも印象的なのが、田園調布学園の卒業生へインタビューした文章です。

学年に一、二組カップルが……でも、結局皆本当の男子とつき合えず女に走っているだけなので、卒業したら男っぽかった先輩にかぎってあっさり女に戻ったりします。(『女子校育ち』p.83)

 一部の百合好きからは呪いの言葉が聞こえてきそうです(この儚さもまた百合の醍醐味、という百合読者もいるかもしれませんが)。さて、このような女子校百合はなぜ「疑似恋愛」として終わってしまうのでしょうか。

 謎を解くカギは、私たちが「恋愛」という概念を習得するやり方にあります。

 

 以前の記事でも書いたように、恋愛は本能ではないのです。本能において、「恋愛」は「生殖」から分離していません。私たちの社会において「恋愛」が「生殖」から独立しているのは、私たちが「恋愛」という概念を学習してきたからです。

私たちは、周りの人たちが恋愛をする様子や、恋愛について語る言葉、恋愛を描いたマンガや小説などから、「恋愛とは何か」を学ぶことによって、初めて恋愛をすることができるようになるのです。

なぜ私たちは「恋愛」を理解できるのか - 恋愛自給自足の間より)

 

 以上のことから、女子校百合がなぜ「疑似恋愛」と呼ばれるのかが分かるでしょう。


 おおむね思春期前後から「恋愛とは何か」という概念習得が始まります。ここで女子校という特異な環境に置かれることによって、「恋愛とは何か」という学習の結果が自分のセクシュアリティとずれてしまうことがあるのです。ですが、概念の学習は生涯続けて行われます。なので女子校生たちが卒業した後、彼女たちが「恋愛」という言葉に込めていた意味内容が変化し、「あのときの感覚は疑似恋愛だったのだ」と事後的に解釈し直すのです。

 

 これが、女子校百合が終わるメカニズム(=女子校での百合が、のちに「『擬似』恋愛だった」として切り捨てられる理由)ではないかと考えられます。

 

 ここで誤解してほしくないので補足しておきます。彼女たちは女子校のせいで「恋愛とは何か」に関する学びに失敗した、というわけではありません。ある言葉にどのようなニュアンスを付与するか、という学習は生涯続くものなのです。

 

 言葉にこもったニュアンスについて、百合マンガのワンシーンを例に考えてみましょう
 『コレクターズ 1』(著:西UKO)は本好き女子・忍と服好き女子・貴子とのガールズラブコミックです。作中で描かれる場面に、「言葉にこめる意味内容の変化」を説明するのにうってつけな描写があります。

 忍が持っていたとある本をめぐって、忍と貴子との間でひと悶着が起こります。以下は、その本についての思い出を忍が語る場面です。

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 以前の忍にとって、三浦哲郎の本には「高校時代に好きだった人から薦められた本」という意味付けがなされていました。

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 ですが、とある出来事を通じて「今の恋人とひと悶着あった思い出の本」という意味に上書きされてゆきます(二人の間で何が起きたのか、気になる方はコミックスを読むことをオススメします)

 以上のようなことと同じ現象が、言葉においても行われているというわけです。

 

 世間一般では「友情」にくくられる感情を、一部の女子校生は「恋愛」という言葉に含めていた、これが女子校における百合なのです(もちろん自分のセクシュアリティに沿った恋愛もあるでしょうが、そちらは「疑似恋愛」としては語られないはずです)。そもそも恋愛と友情という言葉自体、明確に区別し切れるものではなく、地続きな概念ですから、「恋愛」という語句を百合的に理解することも間違いとは言えないのです。

 

 いかなる言葉であっても、その定義は人によって異なります。もちろん大枠は一致しているのですが、どうしても細かい部分で違いが出てくるのです。そして概念の理解は、思考や行動などの前提になるものです。

 同じ言葉だからといって、決して完全に同じ内容を指しているわけではない。そのことを知っておけば、一見理解しがたい他者のことも受け止められるようになるのではないかと思います。

「空想恋愛」に立ち返れ : E・フロム『愛するということ』批判

 

 エーリッヒ・フロム『愛するということ』は、恋愛論の世界的ベストセラーであり、昨年のNHK「100分de名著」でも放送されるなど日本でも有名な作品です。

「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術である」(p.17)
「愛することは個人的な経験であり、自分で経験する以外にそれを経験する方法はない」(p.160)

 など、心にしみる格言が数多く記されており、恋愛を考えるうえで大きな刺激となります。

 ですが現代の思想や科学の観点から見れば、彼の恋愛論には批判されるべき箇所も相当数あるのです。今回はその一部を取り上げてみましょう。

 

 前回の記事で、私は以下のようなことを書きました。

私たちは、周りの人たちが恋愛をする様子や、恋愛について語る言葉、恋愛を描いたマンガや小説などを通じて、「恋愛とは何か」を学ぶことによって、初めて恋愛をすることができるようになるのです。

 つまり恋愛は、他者の恋愛に共感したり、想像を膨らませたりすることによって学び取るものなのです。このような、共感や想像を基盤とした恋愛を「空想恋愛」と呼ぶことにしましょう(これに対して、現実世界で恋愛を実践することを「現実恋愛」と呼びます)。

 言い換えれば、すべての恋愛は「空想恋愛」から始まる、ということです。

 古来より数多くの恋愛論が編まれてきましたが、この「空想恋愛」の重要性については常に見落とされてきたのです。もちろん、フロムの『愛するということ』も例外ではありません。

偽りの愛の中には、「センチメンタルな愛」とでも呼ぶうるものもある。この愛の特徴は、愛が、現実の他人にたいする現実の関係において経験されるのではなく、もっぱら空想のなかで経験されるという点である。このタイプの愛のもっとも一般的な形は、映画や、雑誌のラブストーリーや、ラブソングの愛好者たちが経験する、身代わりの愛の満足感に見られる(『愛するということ』p.150)

 それどころか、彼は「空想恋愛」を「偽りの愛」として批判さえしているのです。

 実際には、「現実恋愛」においても「空想恋愛」と同じような思考活動を行っています。そのことを確認していきましょう。

 恋愛にかぎらず、私たちは他者と対話するとき、相手に「共感」を示すことあります。この「共感」というものは、認知科学的には一種の「推論」であるとされています。安西祐一郎『心と脳――認知科学入門 (岩波新書)』に簡潔な要約があります。

他人の感情を顔の表情や身体の動きから感じ取るときには、意識しなくても相手の表情や動きに自分の表情や動きが共鳴したり、「嬉しいんだな」とか「沈んでいるのね」というふうに、相手の感情を意識的にカテゴリー化したり、いろいろな心の機能が平行してはたらく。共感はこうした複雑な心の働きの産物であり……(『心と脳』p.210)

 要するに、「共感」とは「無意識下での『推論』である」ということです。言うまでもなく、小説やマンガ、映画などの「空想恋愛」を理解して楽しむうえでも、上記引用のような「共感」は重要な役割を果たしますよね。

 

 この「共感」ということについて、フロムは別の箇所でも重要な事実を見落としています。
 彼によれば、「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である」(『愛するということ』p.25)。そしてそれを実現できる唯一の方法が「人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある」(p.37)のだそうです。そして彼は愛を過信するあまり、重大な過ちを犯します。

愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない(p.41)

 ここで重要なのが、フロムは「孤独・孤立を克服」と書いており、決して「孤独・孤立を克服」とは書いていない、という点です。つまり、愛においても現実的な「一体化」や「他者との融合」は不可能であり、あるのは個人的な「孤独感・孤立感」の解消でしかないのです。「依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない」というのは、一体化の不可能性という恐ろしい現実からの逃避であり、歪曲された肯定でしかないのです。

 

 さて、ここまでフロムの『愛するということ』を批判してきましたが、なぜ私がこの作品を批判しなければならないのか、ということをすこしだけ語ります。

 上に記したとおり、フロムは「空想恋愛」の重要性を見落とし、「現実恋愛」だけが真の恋愛であるという「現実恋愛至上主義」に陥っています。このような発想は恋愛の本質を探ったり、本当に恋愛が苦手な人にも役立つ恋愛論を考えたりするときに、大きな落とし穴となるのです。

 数十年前に出版された「現実恋愛至上主義」的な恋愛論が、現代においても猛威を振るっていることに対して、私は相当な危機感を抱いています(これは単純な「恋愛否定」論ではなく、「現実恋愛至上主義」が恋愛を考えるうえで罠になる、という批判です)。

 フロム批判や「現実恋愛至上主義」批判、そして「空想恋愛」論については書き足りない部分がたくさん残っていますが、続きはまたの機会に書くことにして、今回はひとまず筆をおきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

今週のお題「人生に影響を与えた1冊」

 

なぜ私たちは「恋愛」を理解できるのか

 突然ですが、恋をした経験のある方に質問です。
 みなさまは、どうして恋愛をすることができるのでしょうか?

 

「運命の人と出会ったから」でしょうか。それとも「気がついたら好きになっていたから」でしょうか。あるいは、「恋をするのに理由はいらない」なんて言う方もいるかもしれません。ですが残念ながら、このような説明は恋愛の本質に届いていません。

 

 恋愛は本能ではありません。
 恋愛は、自然にできるようになるものではありません。
 恋愛は、学ぶものです。
 私たちは、恋愛を学んできたからこそ、恋愛ができるのです。
 他者を通じて学ぶことがなければ、私たちは恋愛をすることができないのです。

 

 すこし遠回りになりますが、「痛い」という言葉について考えてみましょう。
 私たちは、なぜ「痛い」という言葉の意味が分かるのでしょうか?
 それは、私たちが「『痛い』とは何か?」ということを学んでいるからです。

 幼い頃を思い出してください。公園で転んで泣いていたとき、大人から「どうしたの? 痛いの?」と慰められた経験は、誰しもあると思います。このような何気ない会話を通じて、私たちは「膝を擦りむいたときには『痛い』と言うんだな」と学んでいくのです。
 ところで、「辛い」という感覚は、カプサイシンなどによって口内の痛覚が刺激されたときに感じるものであり、つまり「舌が痛い」ということなのです。にもかかわらず、私たちは唐辛子を食べたときに「痛い」とは言いません。これもまた、学びの成果です。舌がひりひりするときには「痛い」ではなく「辛い」と言う、ということを学んだ結果なのです。
 「痛い」と「辛い」は、どちらも痛覚が刺激されたことで生じる感覚です。しかし、両者の間には明確な線引きがありますよね。
 「痛い」や「辛い」などといった感覚的な語彙は、他者からの指摘や周囲の言葉遣いなどを通じて学び取るものなのです。

 

 同じことが「恋愛」にも言えます。
 私たちは、周りの人たちが恋愛をする様子や、恋愛について語る言葉、恋愛を描いたマンガや小説などから、「恋愛とは何か」を学ぶことによって、初めて恋愛をすることができるようになるのです。
 このとき、「痛い」や「辛い」などと違う点が一つあります。それは「君が陥っているのは『恋愛』という感覚だよ」と他者から直接に指摘される機会がめったにない、ということです。つまり、恋愛を学ぶ手順は、観察や想像などといった間接的な方法に頼らざるを得ないのです。
 たとえば小学生のとき、恋愛のような淡い感情を抱いた経験のある方がいるかと思います。そのような方々は成長してから、「あのときのアレは、恋愛未満のものだよ」と言うことが多いのではないでしょうか。これは、小学生のときには恋愛を上手く学んでおらず、成長してから「恋愛とは何か」についての学びを深めた、ということです。

 以上のように、恋愛は「他者から学ぶもの」である。
 これが恋愛の本質を考える上での重要な一歩となります。

2015/8/31追記(まとめのような余談):

(この記事は2015/08/29に私の旧ブログで公開した文章を加筆修正したものです)